空を駆る者達
咲くは夢の才






パシャーン……パシャ――ン……

遠く近くで水の弾ける音がする。



私は、息を切らして走っていた。

「 おじ様おば様聞いてっ!今日学校でね……!」
幼い頃に両親を亡くしていた私は、子供の居なかったおじ夫妻に引き取られた。
優しいおじ夫妻に何不自由なく育てられ、毎日が楽しくて。ずっとこんな生活が、望まなくても続くのだと疑わなかった。
「 おかえり。」
「 今パウンドケーキが丁度焼けたところよ。」
ドアを開けるとふわっと甘い香りが広がって、私は2人に温かく迎え入れられる。
「 ただいま!あのね、今日学校でね。」
おばの胸に飛び込んで、その日の出来事を楽しく話して。

その日は丁度、学校に少し変わった神父様が来ていて、その話に華を咲かせていた。
夜になって雨が降り出したのも気にせず、眠るその時まで。

翌日、上がった雨に気分も晴れ、私は学校からいつもの様に走って帰っていた。
パシャンと水溜りを踏んでも、私は構わず走っていた。

「 おじ様おば様!ただい―――」
いつもの様に元気に声を上げてドアを開けた。

――おかえり
笑顔と共にそう返ってくるものだとばかり思っていた。
そう信じて疑わなかった。

「 逃げろ…………。」
けれど返ってきたのは苦しそうに漏れ聞こえてくる、おじ様の声で。
「 おじ様……おば、さま――?」
部屋は、床も壁も天井も家具も、総てが紅く染められていて。
誰かが、紅く染まったおじ様の首を締め上げながら笑っている。
……逃げ……ろ――――」
「 いやあああぁぁぁっっ―――!!」

眼の前が紅く染まって。怖くなって頭を抱えしゃがみ込んで目を瞑ると、私は布団の中で涙を流していた。
一瞬、訳が判らなくて。
それでも次の瞬間私は私の温もりの篭る布団を蹴飛ばしてベッドを下り走った。
涙が溢れて止まらなくて、夢中で駆けおじ様とおば様が眠る筈の部屋を目指して。
ドアを開けた。
「 おじ、様、おば様……!」
規則正しい寝息が2つ、仲睦まじく寄り添う様に聞こえてきて、心の底から安心出来て涙が溢れた。
先程とは違う、涙が。

「 ―――ん、?」
「 どうかしたの!?」
泣いている私に気付いたおじ様とおば様が、起き上がって抱きしめてくれた。
嬉しくて、温かくて、安心して。
泣きじゃくる私はおば様に抱きすくめられる。

ああ、あれは夢だったんだ。
私のおじ様とおば様は此処に居る。触れられる、触れている。
悪い夢だったんだ。妙にリアルだったけれど、あれは夢だったんだ。
まどろみながら、そう思った。

――――そう言えば、壁に掛けられていた碧い弓だけは、紅く染まっていなかったななんて思いながら、私はおば様の腕の中で意識を手放した。



数日後。

「 神父様さようなら。」
「 さようなら。」
最近学校に来た少し変わった神父様に挨拶をして、学校を後にする。
雨上がりの帰り道を、いつもと同じく走っていた。
雨粒がついて咲き誇っている紫陽花はどこか誇らしげで、いつもより綺麗に見えていたけれど。
パシャンと水溜りを蹴って、家路へと急ぐ。
優しい家族が待つ、暖かな家へ。

「 おじ様おば様!ただい―――」
いつもの様に。
そう、いつもの様に明るい声を上げてドアを開けた。

「 逃げろ…………。」
返ってきた言葉は、私の予想していたものでも私を迎え入れるものでも無く。
息切れも激しく苦しげな声が消え入る様に漏れて聞こえ。

ああ、これはいつか見た光景だ。
そう理解するのに多くの時間は要さなかった。
「 おじ様……おば、さま――?」
部屋中紅くて、未だ始まってすぐなんだとどこかで冷静に考えていた。
視界の端に入った、壁に掛けられている碧い弓だけは、やっぱり紅くそまってなくて。
「 ―――っおば様……?」
酷い悪臭に小さく息を飲んで、逸る心臓を抑えつけたかった。
視界が霞み始める中、おば様の姿を捜せないで居る自分に苛立ちすら覚えて。
紅く染まったおじ様の首を締め上げる誰かの、笑い声が聞こえた。
耳を劈く、騒音。

「 ……逃げろ―――」
躯に力が入らなくて、膝から崩れた。
それでも涙は止まらなくて、ぐにゃぐにゃと視界は揺らぐ。

――――」
笑った。
「 おじさま……?」
「 ―――――愛してるよ。ずっと……」
一粒の涙がおじ様の頬を伝う。
刹那、私の視界はクリムゾンレッド一色に染まった。

「はっ―――はぁ、はぁっ……!」
呼吸が上手く出来ない。涙も止まらない。
躯に、力も入らない。
バシャバシャと生温かい紅い液体が部屋中に降り注ぐ。
私の手も、腕も、髪も、膝も―――それと同じ色に染まる。
「 いや……いや………。」
力なく声が漏れた。
私は、首を振る。
これは――――――そう、夢だ。いつか見た、悪い夢。
ほら、。早く起きなさい。
おじ様とおば様が、温かな朝食を用意して待ってるのよ。

「 いやあああぁぁぁっっ―――!!」
おじ様の首を刎ねた腕が私へと振り下ろされる。

総てが。
総てが受け入れられなくて、叫んだ。拒絶するように、叫んだ。

風が吹き抜けて、眩い光が溢れて、何かが爆ぜる音がして亦、強い風が吹いて。

それから、温もりを感じた。

考える事を放棄したかった。意識を手放したかった。
けれどこの、どこか懐かしい温もりが、それを許しはせず。
目を開けて顔を上げた。
何も見えなくて、唯、紅とは違う赤が見えて。
人の顔だと判ったのはその後で、その人が誰だが判ったのは亦その後で。

「 ……しんぷ、さま―――?」
「 能く耐えたな。偉かった。」
優しく強く私を抱きしめてくれたのは、新しく学校に来た神父様で。
背中をぽんぽんと撫でた後、神父様は私を立たせた。
そして、紅く染まった部屋の中でそれと相反する様に碧く輝いている壁を見ていた。
「 あれ、は……?」
そこには確か、碧い弓が―――おじ様達がずっと受け継いできていた碧い弓が在った筈。
「 多分、イノセンスだろう。」
「 いの、せ……んす?」
惚と何故か魅入っていると、神父様がそれを手に取って私へと差し出した。
受け取れと、言う様に。

急に怖くなって、視線だけを動かすと、在る筈のおじ様のそれが何処にも無くて。
そう言えばおば様の姿も見当たらない。
――――先程の、誰かも。
……と言ったか。
 お前も、神に選ばれし使徒のようだ。
 悲しければ、悔しければ―――――これを手にしオレと共に来い。」
穏やかに、しかし厳かに光るそれは確かに碧い弓で。
訳が判らない儘、しかし私は確かにそれを手にする。
私の意志で。
碧い弓は一際強く綺麗に輝いて、やがて静かにおさまった。

「 話してやろう。」
ぽんと頭に柔らかな温もりを感じ顔を上げると、それは神父様の掌で。
優しくて、でも何処か悲しげに見えた表情はその掌ですぐに隠されてしまった。
椅子を引いて座る神父様に、私は違和感も覚えず、次の言葉を待っていた。

パシャンと音を立てて、転がっていた花瓶の水がテーブルの上から落ちた。



「 ……おい!」
「 ――え?」

近くで水の音が鳴る。
パシャン、パシャーンと。

一隻の舟に3人が乗っている。
神田と、と、白い服を着た舵取りと。

「 ……落ちたいのか。」
の左腕をしっかりと握り、神田は眉間に深く皺を刻んでいる。
水面ギリギリの処での顔は留まっており、髪はサラサラと暗く冷たい水面を滑っている。
やっと我に返ったのか、焦点が合いだした眼が揺れた。
「 顔になにかついてたかな―――……って。」
「 ……。」
ふいと神田に向き直り、は笑ってみせる。
が、そんな事では誤魔化されないと無言が返される。
ははと小さく苦笑いして、は息を吐いた。
「 音がね、思い出させるの。私のイノセンスとの出会いと、予知夢と言うどうしようもない才能の開花を。
 それをちょっと――ね。」
パールピンクの髪を揺らし、辛そうに笑う。
神田は、唯黙って握り締めていた手を解き、浮かしていた腰を舟へと静かに戻す。気に喰わないといった顔で。
小さな軋み音が上がり、舟は小さく揺れたが亦すぐにバランスを取り戻した。
「 あ、でも大丈夫だよ!?最近は見てないから。1週間以内は悪い事とか厭な事とか起きない筈、だから。」
顔の横で開いた手を振り、心配ないよと続ける。
その米神にはじんわりと汗が滲み出ていた。

「 笑うんじゃねぇよ。」
明後日の方向にポツリと呟かれた言葉は、意外と広い水路の中にすぐに溶けてしまった。
決して目を合わせようとしない神田に、は微笑みをもらす。
「 ……ごめん。―――ありがとう。」
言葉少なに、それでも通じ合える2人。

パシャン、パシャーンと水音が、遠く近くで響いていく。






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