影、其々の




   
割れる様な青空。
本日は晴天也と誰かが云いそうな程綺麗な青が誇る様に空一面を支配している。
ところどころ、刷毛で軽く刷いた様な雲がぷかりふわりと浮かんでいた。


「 ―――というのが殿の申し出に御座候。此方が其の旨を記した書に候。」
懐から一つの白い包みを取り出し、濃紺の着物に身を包んだ少女は其れを差し出す。
対面している武田信玄公に。

此処は武田が領地、信玄が住まう館のとある一室。
広々とした畳の上に座していた少女は腰を浮かせ、信玄へと歩を進める。書を、渡さんが為。
今この部屋には、信玄を含め3人しか居なかった。
主の信玄と、遣いに来ているであろう少女、そして迷彩柄の忍び装束に身を包んだ茶髪の青年。
「 ……ふむ。
 佐助よ、お主は如何思う?」
少女から手渡された書に一通り目をやった後、暫く考え込んでいた信玄は自慢の髭を触りながら傍らに佇む茶髪の忍に声を掛けた。青年の名を呼びながら。
聞かれた青年――佐助はそうですねぇと軽い声音で、一つ息を吐き出ししゃがみ込む。
信玄の持つ書に、目を落とす為。
暫くうーんと唸っていたが、にこっと明るく笑い其の飄々とした声でこう云った。
「 良いんじゃないですか?お館様。面白そうだしなにより真田の旦那が喜びますよこれ。」
ね、と念押しに笑い信玄の顔を覗き込むその笑顔は、面白い事最高とそう云いたげな色をしている。
ふむ、と頷いて、それもそうじゃのうと今にも云い出しそうにそれでも書に目を落としたまま未だ少し考えているのは信玄で。

その思考の先には今この場には居ない、佐助が云った人物があった。
真田幸村、その人である。
自分の事をお館様と呼び、師として仰ぎそして慕ってくれている、紅い二槍使いの。

右手で髭を触り、整った字の並ぶ書を眺めていた信玄は、不意に顔を上げた。
そして、この書を持参してきた少女を見やり、視線を合わせる。
「 お主はどう思う、よ。」
先程、佐助に問うた時と同じ声音で、信玄は少女に訊ねる。同じく、少女の名を呼びながら。
名を呼ばれた少女は正座をしたまま少し躯を強張らせ、小さく固唾を呑む。
そして薄く口を開き、その能く通る声で言葉を紡ぐ。
「 影に意など……主が命が影の意―――」
「 俺の立場はどうなっちゃうのよ〜。」
おいおいと苦笑をもらし、佐助は横槍を入れる。
そう、この飄々とした青年も、忍なのだから。一応。
その言葉に拳を僅かに握り、押し黙るは佐助を見る。というか、睨んでいる様だ。
邪魔立てをするなというか、余計な事を云うなというか、口を挟むなというか、もうお前は黙ってろと暗に云っている様で。その様に怯える佐助を他所に信玄は眉根を寄せる。
「 わしはお主の意見を聞きたいのじゃよ、。主従関係も何も無い、お主の素直な意見をな。」
ぱたぱたと、広げていた書をたたみ入れられていた封へと戻しながら信玄は口を動かす。
何の枷も気にせんで良いと加えて。

じいと4つの眼に見つめられ、は少したじろいでしまっていた。
忘れているかもしれないが、此処は信玄公の住まう居城では遣いの者。
そう、つまりは単身、遣いの為敵地へとやって来た忍なのである。
部屋の中には例え2人しか居ない敵であっても、薄い襖を開ければ5万という兵が待ち構えているのだから。
幾ら忍と云えど、少しくらいは自分の身を案じる瞬間があるだろう。多分。
口を鎖し考えている風であるは、それでも信玄の瞳から眼を逸らす事無く。
静かに流れる時は、窓より入り込む風の音だけが見守っている。
「 ……影は―――」
「 それから、その話し方も止めぬか?なんかこう、のう?政宗公と話しとる時と同じ様にせい。」
意を決したのか、口を開き言葉を発した瞬間、その声は信玄の発言によって打ち消される。
もっと力を抜いてと優しく笑いながら。
はその言葉に鋭く反応を示す。
瞳孔を猫のそれの様にぎゅっとすぼませ、僅かに握り締めた拳をきつく握り直し口をへの字にきつく結び。
再び、押し黙る。

「 わしは何か気に障る様な事を云ったか?」
それに慌てたのか、信玄は僅かに揺れた声音で口を開く。
隣に居る佐助はというと、片眉を上げどうやら驚いている様だ。
「 ――――殿との何を存知で。」
チリチリと凍てつく様な、ピリピリと刺さる様な空気を部屋中に充満させ、はその重い口を開く。
細い瞳で、信玄を捉えたまま。低く凄んだ、その綺麗な声音で、信玄へと言葉を返す。
さながらその眼は修羅か羅刹の様で。
むき出しの敵意は隠される事無く向けられる。
僅かに歪んだ顔の信玄は、つうと一筋の汗を流し、ゆっくりと口を開ける。
「 何をと……政宗公と話して―――否、政宗と2人きりで話している時は砕けた言葉を使っていると。」
暫しの沈黙。
ひゅるりと窓からは温かな風が舞い込む。
「 幸村が云っておったぞ。」
ワンテンポ置いて。
信玄はそう言葉を続けた。
「 あの……阿呆………!」
その言葉に驚愕の色を見せるも刹那に噛み殺し、は俯き言葉を漏らす。
飾らず選ばず、彼女の自然な今の気持ちを包み隠す事無く。
ふつふつと沸き起こる感情に、拳は更にきつく結ばれギリギリと歯噛みするその顔はまるで阿修羅の様だとか。
そんなに信玄と佐助は、掛ける言葉を失っていた。
突然のそれこそ態度の豹変に、予想はしていたもののそれ以上のものだったのか対処しきれていないのだろう。俯き小刻みに震えると互いの顔を見交わしては口を金魚の様にぱくぱくと開閉するだけで。言葉はその効力を失い役に立つ事は無かった。

「 良いでしょう。」
不意にすっと顔を上げたは口を開く。
ぎりと噛みしめていたものを捨てた様な、それでも未だ険しさの残る表情で。
今までの、畏まった言葉の羅列とは違った、信玄や佐助が使用しているのと同じそれで。
「 誰かさんを血祭りに上げるのは取り敢えず置いておくとして。
 それ程までに私の素直な意見をお聞きしたいのであらばどうぞ、お話しましょう。」
瞬時に、険しさの残っていた色を消しにこりと穏やかに笑うの腹の中は、どうやって血祭りに上げてやろうか、どう料理してやろうかといった黒いものだけであった。
それが見て取れたのか否か、信玄と佐助は何故か膝を正し、はい、是非お願いしますと行儀良く揃えた声で頼んだ。
その2人の様を不可解とも思わず、は次の言葉を用いる。
凛と通った、綺麗な声音で。

「 私は反対です。」
穏やかに笑うその口で、少し棘を含ませ言葉を一つ、紡ぐ。
対する2人は、予想だにしていなかった返しに対処しきれないで―――居る。
「 断固として。
 本当の事を云ってしまえば、今日それを持ってくるのも相当揉めたんですよ、政宗(あのバカ)と。
 私は反対だと、賛成出来ないと。
 なのに嫌がる私に無理矢理押し付け持たせ、遣いにまでやって。……主君命令だとかのたまいやがって。」
の、のたまう。
よもやその様な言葉まで飛び出すとは、この子、実は怖い子なんじゃ、いやいや、相当怖い子なのではと心の中でやり取りを交わす2人。
その顔色は、あまり良いものとは云えず、影に青いものが見え隠れしている。
言葉を選ばないとここまで砕けるのかと変に感心する信玄は、それでも考える。
何故ここまで、は反対するのか。
バカと呼びはするがそれでも政宗はの主君。一介の忍風情が一国の城主に意見など出来様筈が。ましてや反対意見を。
「 何故そこまで反対するのじゃ?それに遣いに出たくないと云うのは……。」
気付けばこう、口をついていた。
それに対し驚きもせず、はこう返す。
「 決まっているじゃないですか。
 私だって、……私は忍です故、主の命は尊重しますというか遵守します。
 それに、今回だって単に伊達と武田の親善試合なのであれば反対などしません。寧ろ賛成します。
 しかし……―――――。」

そこまで云い、は一度区切る。
はぁと盛大に溜め息をつき。
その様子に、の心の中のある部分を判っている佐助は、あははと苦笑をもらした。
「 対武田となれば、彼奴も必ず参戦するでしょう。」
今日だって彼奴が居ると思ったから来たくなかったんです。
そう目を伏せ続けるには、明らかに疲れの色が伺える。
「 真田の旦那、嫌われてるなぁ。」
ついつい漏れたのは自身の本音で。
くつくつと苦笑しつつ、云い吐いてしまった言葉を飲み込もうかと佐助は手で口を押さえる。
再び盛大な溜め息を漏らし、別に嫌っている訳じゃ無いですよとわざとらしく云ってのけるは、結構にげんなりしている。
その2人のやり取りの意味が判らず2人の顔を交互に見る信玄に、佐助は実はですねお館様、と耳打ちをする。
「 っ!ちょっと猿飛!!」
それに気付いたは声を上げ佐助の名を呼び止める。
刹那。
「 わーっはっはっはっはっはっ!」
豪快な笑い声が辺りを包み込んだ。
天晴れ、天晴れと続くその声音は、非常に愉快そうで。
やだなぁお館様、なんて云いつつ佐助も笑う。
の変化に、気付く事も無く。
「 信玄公!それに猿飛ィッ!!」
ダンッと片足を畳の上に立て、遠慮する事無く拳を握り締め声を荒げる。
今にも得物を抜かんといった、その雰囲気で。
それでも笑い止まない2人にの苛苛は積もるばかりで。
「 笑い事では御座いませんよ信玄公。
 貴公の臣下たる真田が―――」
「 ぅぅうぉぉぉおおお館様あああぁぁぁぁーっっっ!!!」
バリと音が鳴りそうな轟音が、の綺麗な声を打ち破る。
そう。
今話題に上がっている人物が真田幸村、その人のそれである。
その声にぴりと素早く反応したは、天井裏へと眼を走らせ体躯を持ち上げる。
が、佐助、続いて信玄にその行く先を妨害され其処へ行く事は叶わなかった。

何をなさるのですか、とか、まぁまぁ良いではないかゆっくりしてゆけ、とか、そうそう今お茶出すからさちゃん、とか、気安くちゃん付けするな、だとか。
揉みくちゃになりながら3人は其々に声を上げ、逃げようとしたりそれを阻止したり。
「 御放し下さい信玄公。今は手荒な事をしたくても出来ません故!
 あと猿飛ィ!ドサクサに紛れて何処触ってやがる貴様!」
米神に青筋を浮かべ、覆い被さる佐助に肘鉄を入れつつ信玄に言葉を送る。
さっさと放せと云いたいところをぐっと堪えオブラートに包み込み。
役得役得、なんて云いつつもろ顔面に肘鉄を喰らい鼻血を流す佐助はの背中から腕を回し―――何処を触っているのかはこの際割愛しておこう。
信玄はというと、必死に両足にしがみ付き逃すまいとしていた。
もたもたと、わたわたと、げしげしと。
信玄を蹴り飛ばさぬ様に足は動かさず、手を、手だけを動かしその総ての苛苛をぶつける様に佐助を殴りつけている。

「 いだだだ、痛いってちゃん。大人しくしないとこうだよ?」
「 ――っ猿飛!信玄公、猿飛が助平な事してきます助けて下さい!」
「 なんと!これ佐助!」
「 ぅぎゃあぁっ!!ちょっとちゃん告げ口しないの!お館様も浣腸はしないで下さいよ〜。」
一人の少女に大の男が2人がかりでしがみ付き、尚且つ一人が一人に浣腸をすると。なんとも混沌とした画が繰り広げられている。
痛い、とか、放せ、とか、止めぬか佐助、とか、それぞれにそれぞれの声を上げている3人は、それでも本気なのだ。思い切り真面目なのだ。
逃げようとするのも、それを止めようとするのも、勿論セクハラをしているのも。
「 ぅお館様ぁ、ぅぅををお館ざまああぁぁぁぁっっっ!!
 幸村、只今戻りましたぞおおぉぉぉー!!!」
ズドドドド、と地響きが鳴り近づいてき、更に言葉ともならない言葉で叫ぶ男性の声も近づいてきた。
その声と音に3人は動きを止め、一枚の襖に視線の先を移す。
一瞬の静寂。
「 お館様ぁっ!」
それを破るのはやはりこの元気の良い叫び声で。
スパンと勢い良く襖を開け紅の二槍を持った男性が現れる。喜びに満ちた笑顔をこぼしながら。
しかし迎え入れる3人は、先程からの体勢を変えられずに、居る。
つまり、走り帰って来た幸村の目に飛び込んできたのは、畳の上に転がる3人。
それも、の躯には信玄と佐助がべったりと引っ付き、佐助の両手はの―――胸の上、で。
現状がすぐには把握出来ないのか、幸村は襖を開けたその儘の状態で暫く止まってしまっていた。

「 な……なんと破廉恥な!佐助……だけでなくお館様まで!?すぐに離れるでござるよ!!」
ガランと乾いた音を響かせ幸村は二槍を取りこぼす。――――と云うより、床に叩きつけたと云った方が正しいやもしれないが。
兎に角我に返ったのか状況が把握出来たのか、幸村は声を上げる。
頬をかあと、槍と同じ様に紅く染め、腕を大げさに振り回しながらすぐさま3人へと駆け寄る。
早くするでござる、さっ佐助何処を触っているでござるか、お館様まで、とぎゃあぎゃあ喚き散らしながら2人の躯を叩いたり引っ張ったり。忙しく動き回っている。
その後、佐助と信玄の右頬にグーパンを入れたりしながら、幸村は2人をから引き離す事に見事成功した。
しかし、云うと2人は自分達を殴ったこの幸村の為にを引き止めていたのだが……世の中とはなかなかに上手く噛み合わないものである。

「 だ、大丈夫でござるか?」
乱れた着衣を正すから少し離れ、信玄と佐助を従え幸村は上擦った声を掛ける。
頬の紅潮を一段と濃くしながら。
一言無論と小さく返すだけで、は幸村を見ようとはしない。
「 そ、その、佐助とお館様がとんだ事を……誠に申し訳ない事をし申した……。
 そ、その、あの、あの……――」
「 気遣い、無用。」
きっぱりと凛とした、選んだ言葉と声では幸村の言葉を遮った。
まるで、幸村に自分の名を呼ばせまいとしているかの様に。


その様子を後ろから、哀れみの色で見ていた信玄は、一悶着の後の一段落付いたところで場を仕切り直す。
「 さて、政宗からの申し出じゃが。」





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