雨が降っている。
未だ陽も昇らない時間からパラパラと降り出し、日の出時間の今では本格的に降っている。
コムイ室長が久しぶりにくれた休暇も、結局は無駄に過ごしてしまいそうだ。
外は雨。
雨の日は出来る事なら動きたくない。
苦い思い出と辛い記憶が蘇るから。

外は雨。

雨。



凍てつく様な寒さ。空からは矢の様な雨が容赦なく降ってくる。
それでも駆ける足を止められない訳。
服なんて粗末な物で唯纏っているというだけ。靴なんてとうの昔に失くしている。
両の腕には冷たく鈍く光る手枷がはめられている。
息が切れそう。両の足の感覚も麻痺してきた。
それでも私は駆ける足を止めてはいけない理由をもっている。

奴隷
愛玩動物

身分の高い欧州の人間が、アジアや他の地域から同じ人間を攫い捕まえては売買している。
本当に同じ人間なのだろうかと疑いたくなる程の狂気を佩びた人間が、私達を狩り立てた。
なかなか捕まらなかったり反抗や抵抗をする人間には、冷徹なまでの仕打ちが待っていた。
それでもそこで殺される事は殆ど無い。大事な金の卵だから。
その後捕まえられた人間はボロ布に着替えさせられてから小さな鉄の箱の中に詰め込まれる。
この先はもう、人間としての扱いは受けられない。
幾つもの小さな鉄の箱が船に積まれ、欧州各地に卸される。


私の父は小さい頃他界していた。兄弟も居ない。
たった一人の母も、つい先程息を引き取ってしまった。
この小さな鉄の箱に押し込まれ、人間としての最低限の扱いも受けられず。
周りを見れば、私の母と同じ境遇の人達がチラホラと居た。
こんな扱いを受けた先には、これ以下の扱いが待っているだけ。
腐った連中が売り捌く先には、同じ腐った連中しか居ないでしょう?

ゴオオンと低くて大きな音がすると船は止まる。どうやら次は私達の番らしい。
小さな扉が錆びた音を立てながら開かれ、そこから眩しい光が漏れてくる。
聞きなれない言葉が飛び交う中、強制的に外へ出される。
お母さん、お母さん。
頬を伝う涙は悲しさから。そして、憎しみから。
母の形見の物など、何一つとして、有る筈が無い。
この小さな鉄の箱に入れられる前に、総て奪い上げられて仕舞ったのだから。
だから、せめて。
見えなくなるまで私は、動かなくなった小さな母を見つめていた。
下衆な連中に踏まれても、声を出しはしない母を、いつまでも。

それからすぐに、乱暴な力で少し高くなっている所へと連れてこられた。
見下ろせばそこには、煌びやかな衣服に身を包んでいる人間や、怪しげな雰囲気を醸し出している人間が大勢居る。
私達を捕まえ此処まで連れてきた人間とそいつらの間で何かが始まった。
きっとこれが人身売買というものだろう。
よもや私がそれに当たろうとは。世の中はなかなかにして狂っている。

気付けば雨も降り出していた。
私の頬を伝う涙は、いつの間にか雨に流された。

この先、私の得られる道は三つ、だ。
一つは、奴隷としての道。
一つは、自害という道。
そしてもう一つは……。
成功率は絶望的に低いだろう。そしてその先に必ず仕合わせが待っている訳でもない。
否、待っているのは地獄の様な世界だろう。
けれどもその先には少なからず自由が待っている。
そう、逃げ出すという道だ。
過酷な道だとは百も承知。
だけど私はこんなところで死ぬ訳には、ましてや同じ――とは思いたくないが――人間に買われ飼われる人生なんてまっぴらだ。
ならば何処までも逃げてその先で死にたい。強制された死などクソ喰らえだ。
だから私は敢えて逃げるという道を選ぶ。
生きる為の逃避。
そして、逃げるならば売買の成立した後が好機である。
怪しげな雰囲気を醸し出している人間に買われてしまえば好機は先になるが、煌びやかな衣服に身を包んだ人間に買われれば、好機は我が手中にある。
特に子供連れが良い。
よもや私達が逃げ出すなどと相手は考えてもいないだろうから。

両の手には冷たく鈍く光る手枷がはめられており、そこからロープが伸びている。
これを買い主に持たせるのだろう。
無論足などは裸足だ。裸足であればそれだけで逃げ出す気力が失せるとでも思っているのか。
小さな鉄の箱に詰め込まれての船での長旅。
体力の消耗は激しい。
けれど死ぬならばせめて、自由に死にたい。
ここまで生み育ててくれた母の為にも。
こんなところで、朽ち果てる訳にはいかない。

雨が本降りになってきた。好機だ。
人は手に手に傘を持つ。注意力も散漫になりがちだ。

友達も隣人も、もう既に売られてしまった。
もうこの地で私の名を知る者は居ない。
私をと呼ぶ人は、もう……。

そんな中、不意に乱暴な力で引っ張られた。
どうやら私の売買が成立したらしい。見ればそこには子供連れの家族が居るではないか。
雨足も強まっている。
なんたる好機。天も私に味方している様だ。
後はこの家族が馬車に乗り込もうとするその時に出来る一瞬の隙をついて逃げるのみ。
ドクンドクンと胸が高まる。
何処まで行けるか、何処まで逃げられるか。
すぐに捕まってしまうかもしれない。けれどそれでも構わない。
一時でも自由を。一握であっても自由を。一縷でも人間としての、感情を。

案の定、父親であろう人間が私と繋がっているロープを持っている。もう一方の手には、傘を。
腰には銃らしき物が差されている。これは厄介だ。
逃げる時に奪って捨てた方が良さそうだな。
そんな事を考えていると、馬車へと引っ張られて行く。
私と繋がっているロープをを持つ男は、馬車の扉を開ける為に、傘とロープを同じ手で持った。
愚か、絶大なる好機ではないか。
先に子供を乗せ、次に母親であろう人間の手を取る。
私は少しずつ手枷より伸びるロープを手繰る。
2人が口付けをした。
来た。これを逃す手は無い。これを逃せば次は無い。
そう思うとナニカが切れた。そんな気がした。
私は思い切り力を込め男の手からロープを抜き取り、腰からは銃を奪い取った。
そして間を於く事無く走った。振り返らずに力のまま走った。
後ろの方からは叫び声が聞こえてくる。けれどそんなものは気にしてはいられず、走った。


凍てつく様な寒さ。空からは矢の様な雨。
途中、何度か転んでその拍子に銃を落としてしまったけれど、元々あんな物には何も期待していなかったから如何でも良い。

右に曲がって左に曲がって。
それを続けているうちに建物が並ぶ街中に出た。
多くの人間が傘を差して密集している。
これは好機だ。遠ざかる声の追っ手を、これできっと撒ける。
私の胸は高まった。
先程逃げ出した時と同じくらい、鼓動が速まる。
先の事など考えてはいない。今、この時を、逃げる事だけを考えていた。
走って走って。
気付けば人気の少ない場所に出ていた。
私は喜んだ。私は、自由を感じていた。
冷たさで咽喉や身体は切り裂かれそう。足も麻痺している。
それでも私は自由を感じていた。心はとても満ちている。

ズシャアアァァ――
雨で前が見えなかったのか、それとも涙で前が見えなかったのか。
幾度目か、私は躓いて転んだ。
遠くでは叫び声が未だ聞こえる。
立つんだ。立って、走るんだ。
そう思っても、身体はピクリとも動いてくれない。
どうして、動け、動け!
早く走れ、今すぐ立ち上がれ!!
そんな気持ちとは裏腹に冷たい雨だけが身体に打ちつけられる。

悔しくて、悔しくて、悲しくて。
もう声を出す力さえない。
両目からは熱い涙が溢れ出た。
力なく握り締めた手は、泥を掴むだけで。
遠くで聞こえる叫び声が、先程よりも近くに感じられる。

私は、こんなところで終わってしまうのか。
再び捕まれば、その先には地獄の様な毎日しか見えない。
耳に絡み付くのは雨音と、苦しみ喘ぐ私の声。
泣いたって何も始まらない。けれど今はそれしか出来ない。
鼓膜が破れそうな程煩く、雨の音が耳に入る。
私は、ここで終わってしまうのか。
悔しくて、悲しくて、惨めで。
涙は雨に流されようとも決して止まりはしない。
尚も雨は止まずに私の身体へと容赦なく突き刺さる。
ならばいっそ今ここで、捕まる前に死にたい。
このまま大地に抱かれて、お母さんが待つところへ行きたい。
煩く耳に入る雨音に、消えかかる意識がそう叫ぶ。


ふと、音が消えた。
頭にも突き刺さっていた痛い感覚も消えた。
「 大丈夫か。」
温かで、低い声が聞こえた。
再び雨音が耳に入る。
驚いた私は最期の力を振り絞って顔を上げる。
とうとう追いつかれ、捕まってしまったのか。私もここまでなのか。
そう思って見上げた先の顔は、私の意に反して狂気のそれではなかった。
無精髭を生やした明るい色の髪をした男が、眉を寄せ屈んで私を見ていた。
「 ジョニー、ちょっとこれ持っててくれ。」
すっと立ち上がったこの男は、真っ白な衣を身に纏っていた。

時が止まった気がした。
雨も雨音も止まった気がした。
私の目はこの男性に釘付けだった。
天使だ。
天使が私の眼の前に居る。
そう思った。

視線を下ろしていくと、裾辺りが泥水を吸って茶色くなっていた。
ああ、きっと、さっき私を見ていた時に汚れてしまったのだな。酷く悪い事をしてしまった。
そんな事を思っていると、天使が再び私の方へと振り返り、方膝をぬかるんだ地面につけた。
「 立てるか?」
そう何か口にして天使は汚れている私の身体へとその綺麗な手を伸ばしてきた。

訳が判らない。
力の入らない私の身体は、この天使――否、能く見ると違う、唯の男の人だ――にされるがままだった。
ぺたりと両足を地面につけたまま座らされているかと思うと、おもむろに男性は自身が着ていたあの白い衣を私に掛けた。
「 詳しくは今説明してる暇ねえけど、俺達は怪しい者じゃないから。君を助けたいんだ……!
 ――って、言葉通じてんのかコレ?」
この一連の動作の間、この男性は自分が濡れるのもお構いなしと云った感じで、私に傘を差し出していた。
おかげで私はこの間、上から雨に降られる事は無かったけれど。
「 じゃ、行くぜ。」
にこっと微笑んだ男性に、私は再び天使を見た気がした。
訳も判らぬまま傘を持たされた私は目を丸くする。
でも、どうしてか、不思議とこの男性の事は信じられる。
無性にそう思えた。
次の瞬間。
ふわりと身体が浮いた。
男性が、抱き上げたのだ。私を。
肌と肌が触れある部分が、とても温かく感じられた。
何年ぶりだろうか、母以外の人に抱きしめられたのは。
何故だか涙が溢れた。
恥ずかしくなって、私は顔を隠す。

どうしてこの人は、見ず知らずの私にこんな事をしてくれるのだろうか。
私が人身売買のそれだという事は身なりを見ればすぐに判るのに。
それに自分が濡れたり汚れたりする事を、躊躇う素振りが何一つ見受けられなかった。
何故だろう。
今までとは違う胸の高鳴りが、不意に私を襲った。



そして連れてこられた先はここ、『黒の教団』だった。
同じ少女、という事でリナリーと共に風呂に入り、泥汚れと冷たさを洗い流した。
話してみると同じ言葉が返ってきて、心の底から安心出来て亦泣いた。
それから私はコムイ室長の計らいにより黒の教団の一員となった。
右も左も判らない私に、ここの人達はとても優しかった。
リナリーとコムイ室長に教わり英語をマスターする頃には、すっかりここでの仕事と生活に慣れていて。
資料整理から入り、4年経った今ではすっかり私も科学班の一員だ。

あの日あの時、班長と出会っていなければ今頃私は生きていなかったかもしれない。
例え生きていたとしても、自由や人を好きになるといった感情などは得られなかっただろう。
確かに私はあの時、班長に助けられたのだ。否、救われたのだ。
だからあの日私は、私を救う為に泥だらけになってしまった白衣に誓った。
例え何があったとしても、共に歩いて行こう、と。
救われた命の恩義は、命の他で返す事は出来ない。
だから私の命が有る限り、私はこの人と共に歩いて行く。

降りしきる雨が映る窓には、壁に掛けられているあの日の白衣が映って見える。
ボロボロになったからと新しい物に変えた時に班長から直接貰ったのだ。
決してあの日の事を忘れない様にと。


〜。俺も今日休み貰ったからさ、買い物でも行かねぇか?雨降ってるけど。」
部屋のドアを叩く音と共に聞こえてくる声は、あの日聞いた天使の声だった。

外は雨。
けれど貴方とならば何処へでも歩いて行ける。そんな気がして仕方ない。
雨の日に救ってくれるのは、いつも貴方。
暗く沈んでいた気持ちがその一声で消し飛ばされるよ。
あの日と同じ様に雨の中買い物。か。
そんな貴方に、何処までもついて行きます。
この先もずっと、共に歩いて行こうと。
横目で見た白衣にもう一度誓った。

「 班長。買い物は良いですけど白衣は脱いでいって下さいね。今日は仕事じゃなくてお休みなんだから。」
ドアを開けたら、眩しい程の光を見た。
その光の中心には、私の、天使の笑顔が溢れている。    






白衣の天使











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