「 子龍。」
「 か。どうかしたのか?」
「 ううん、どうもしないよ。ただ子龍の顔が見たかっただけ。迷惑だった?」
「 まさか。とても嬉しいよ。」
日課の鍛錬をしていると声を投げ掛けられた。
槍を下ろし振り返ると、ふわりと柔らかな笑顔を咲かせたが居た。
少し時間良い?と手拭いを差し出しながら何処か遠慮がちに申し出る彼女が、たまらなく愛しいと酷く感じる。
こんなは、今までに見た事が無い。
槍を地に衝き立て差し出された手拭いを受け取ると、不意に身体が衝撃を吸収した。
「 ―――と、……どうしたのだ?」
こんなは、今までに見た事が無い。
幼子が母親に甘えるように私の身体を強く抱きしめている。
こんなは、今までに一度たりとも見た事が、無い。
声が、上擦ってしまう。
確かに私とはお互いに想いを寄せ合う仲ではある。……しかも殿達公認、の……。いや、其処は特筆すべきところではないな。
戦や鍛錬の合間に逢瀬を重ねてきはしたが、私は未だ彼女を抱きしめた事は無い。それは彼女も同じだ。
いつだったか、槍に興味を持った彼女に軽く鍛錬をつけている時に不慮の事故で彼女が倒れそうになった事があった。その時は唯無我夢中で、彼女が転倒しては大変だとそれしか頭の中に在らず槍を投げ出し彼女を抱きとめたが、その後はお互いの顔を直視する事はおろか安否を気遣う言葉すらたどたどしくなっていたというのに。
今のこの状況は、一体全体如何したの云うのだ。
「 ――……?」
何時もならばこう名を呼べば明るい笑顔を咲かせ柔らかな声が返ってくるというのに、今日はそのどちらもが返ってこず、代わりに私を抱きしめる腕に力が籠められた。
いや、まあ、うん。
このもこれはこれで可愛らしく愛しいのだが。
残念ながら私も一人の男である。
こうも無防備に、こうもいじらしくされてしまっては身体が上気してしまうだろう。それが、悲しいかな男の性というものだと思う。
今まで彼女に触れた事など数える程しかなかった。けれど心の何処かでいつも触れていたいと、抱きしめてみたいと思ってはいたのだ。そ、その先の事は考えもしなかったが……。
長い沈黙が続く。周囲に人の気配は無い。
これを、今を逃せばこの趙子龍、男にはなれないのではなかろうか。
「 ――」
「 子龍。」
震える声を抑えなんとか絞り出し、両の手をのか細い肩へと回そうとした途端、彼女から名を呼ばれた。
思わず身体が、びくりと反応する。
顔を私の胸に埋め抱きしめる腕に力を籠める彼女は、なにを考えているのだろうか。
「 どうした?」
一つ深呼吸。
優しくと何時もの調子を心がけ返す。
彼女は小さくうんと頷き呟きながら、ゆっくりとその愛らしい顔を上げた。
その頬は紅を引いたように紅く染まっており、まるで鏡でも見ているのかと一瞬錯覚してしまった。私は顔のみならず、身体中が熱い、が。
「 子龍。」
潤んだ眸で、震えたように少し濡れた声で亦名を呼ばれる。
顔に火矢が放たれたかと思う程に熱くなり、気持ちが溢れそうで震え出す。
「 子龍。」
そんな色を湛えた眸で声で、私を刺激しないでくれないか。自制心が弛みそうで、吹き飛びそうで、自分が何を仕出かすか見当もつかず恐ろしいのだ。を、私はを傷つけたくは無い!!
「 子龍……。」
そんな甘えた声を出されては。
「 子龍……。」
そんな妖艶な眼差しを向けられては。
「 子龍、接吻、して………」
雷が走った。
ような気がした。
私の目の前に広がるのは、能く見慣れた無機質な自室の天井。訳も無くそれが拡がっている。
状況を理解するのに幾らもかかったので、私は相当舞いっているようだ。我が事ながら恥ずかしくて情けない。これは早々に冷水を浴びて目覚める他無いだろう。
それにしても後少し、ほんの少し。
あの夢が続いていれば私は如何したのだろうか。にせがまれるまま事を済ませたのか、それとも自制心を利かせたのか。
知りたいような、知りたくないような。知っては、ならないような。
「 あ、子龍おはよう!」
「 お、おお、おはよう。」
そんな自問自答を繰り返しているととばったり出くわした。
条件反射か、今朝見た夢が瞬時に脳裏を過ぎり強くこびり付いて離れやしない。心なしか鼓動も速まり体温も上昇している気がする。
私は一体、何を期待しているというのだ。不埒な。の顔を、直視出来ない。
「 今朝夢に子龍が出てきたんだよ。」
にこりと咲かせた笑顔が、純真無垢な笑顔が眩しい。
夢という言葉に顔が火照る。私は、私は如何かしているのだ。かの事は私が勝手に見たマヤカシでは無いか。はそんな事を云う筈が無いのだ。知る由もないのだから。
「 そうか。どのような夢だったのだ?」
「 夢ってね、人に話すと正夢にならないんだって。だから、内緒。」
「 そうか。」
そう云われ、少し残念がっている自分が居る。
今私は、にどのような言葉を期待していたのだろうか。―――全く、我ながら卑しい感情だ。あわよくば同じ夢をなどと。
ん?
けれど夢の内容を話さないという事は悪い夢では無かったのだな。
は、どのような夢を見たのだろうか。の夢の中の私は、きちんとしていたのだろうか。
「 でもね、夢の中でも子龍は優しかったよ。」
袖を引っ張られ立ち止まり、目を見詰め合えば柔らかな笑顔を贈られる。
嗚呼、そうだ。
私はこの笑顔が好きで、守りたいと思ったのだったな。
「 ありがとうね子龍。」
その一言で、今朝みた夢が浄化されるようだ。
やはり私はの太陽のような眩しく柔らかい笑顔が好きなのだ。
「 それじゃ、亦朝食の時に。」
「 ああ。」
「 亦ね、子龍。」
―――――おまけ―――――
「あ、。」
「なに?」
「夢、正夢になると良いな。」
「―――っ……ありがと。」
「?どうかしたか?」
「う、ううん、どうもしないよ。」
「悪い夢、では無かったのだろう?」
「勿論!勿論、とても、良い夢でした。……もう少し見ていたかった位。」
「そうか。それは私としても嬉しいよ。」
「……唯正夢になって続きがみられるかは子龍次第だけど。」
「ん?何か云ったか?」
「ううん!なにも云ってないよ!それじゃあ亦後でね。」
「ああ、亦後で。」
夢の続きでもみようか