魔法の水
どうしてこうなったのか。 元を辿れば俺が風邪をこじらせ寝込んだのが起因なのだろうが、どうしてこんな事になったのか。 俺は就くべき人を誤ったのか。それとも向こうに強力な味方が出来てしまったのが計算外だったのか。 「 んん……」 そんな無防備な状態で、そんな声を出さないでくれ。 頬を、擦り付けないでくれ。 慣れない酒で上気した無防備な寝顔で、嬉しそうな表情をしないでくれないか。 可愛さに、愛おしさに、歯止めが利かなくなる。 「 此方で御座います。」 「 ……ああ。」 俺の両腕に掛かる重み。見た目以上に軽くて驚きと同時に、心配にもなる。こんな小さな身体で、こんな華奢な身体で軽さであの激務をこなしているのかと、きちんと三食とっているのかと。 服の上からでも伝わる温もりに、どこか懐かしさを覚えながらも緊張している事を自覚する。 普段、病気や怪我をしている人を抱きかかえることはあっても、そうでない人間を自らそうする事は無い。 異性は、特に。 それにその異性がきみだなんて、考えただけでも眩暈がする。 「 此方へどうぞ。」 促され、通された部屋にはベッドが2つ並ぶ。 「 それではごゆっくりおくつろぎ下さいませ。」 「 ……少し、待ってくれ。」 そのうちの一方に寝かせると、この部屋まで案内してくれた客室係の女性が一礼をして出て行こうとした。 ずっと迷っていた。 云うべきか如何か、此処へ来るまでずっと悩み迷っていたが、腹を据えて口を割る。 「 ……すまないのだが、その、――――彼女のスーツを脱がしてやってくれないか。 隣の部屋に居るので終えたら声を掛けて欲しい。」 きょとんとする女性にそこまで伝え、そそくさと部屋を出る。 どうしてこんな事になったのか、全く見当がつかない。まるで悪い夢を見ているようだ。否、夢であればどれ程良いか。 深い溜め息が自然と漏れる。 俺と彼女は、傍から見て如何いう関係に映っているのだろうか。兄妹?上司と部下?それとも―――恋人同士…… いや、こんな事を考えたところで何になると云うのだ。心の気休めか?それなら酒を飲めば事足りるだろう。 それとも俺は――――――、いや、もう良い。今日は酷く疲れた。 タイを緩めスーツの上着をソファーの背に垂れ掛け、ゆっくりと腰を沈める。 今日は色々と、衝撃的過ぎた。 パタンとドアが閉まる音が上がる。 顔をそちらへ向ければ、暫くして客室係の女性が出て来る。 「 スーツは皺にならぬようお掛けしておきましたので。」 「 ああ、ありがとう。」 「 それでは失礼致します。ごゆっくりとおくつろぎ下さいませ。」 深々と、姿勢を保ちながら一礼し、女性は静かに部屋を出た。 亦、溜め息がひとつこぼれる。 このたった数時間の出来事が目まぐるしく、それでも鮮明によみがえるようで……気疲れか、溜め息がこぼれる。 ふと物音がした。 彼女が起きたのだろうか。それにしては、やけに静かだ。 彼女が眠っているベッドルームには立ち入らないでおこうと思っていたが、少し気になるな。様子だけ見に行くべきか。 ドアを押して開ければ、部屋は眠りやすいようにと照明が調節されていた。 近付けば、規則正しい小さな寝息が聞こえてくる。 どうやら起きた訳ではないようだな。 仄暗い部屋の中、ベッドボードの優しい灯りだけが彼女の愛らしい寝顔を照らしている。 「 ――……?」 視界の端に黒い影を見付けた。 拾い上げてみれば、女性物の小さな腕時計。 ……これが落ちた音だったのか。 横を向き、布団から投げ出された両腕を見て息を吐く。きっと無意識下で邪魔だと判断し外したのだろう。 モゾリと動き寝返りを打つ彼女。細く白い腕は外に投げ出されたままだ。 暖房がつけられているとは云え、この儘にして風邪でもひかれてしまっては困る。特に、『前回のお返しだ』と云って彼女の自宅に看病に行くよう院長に愉しそうに云われるのは目に見えて判る。それだけは何としてでも阻止しなれけば……耐えられそうに無い。 そもそもどうして院長にバレてしまったのか――――俺とした事がとんだ失態だ。 「 ……仕方が無い、よな……。」 細く小さな腕時計をベッドボードのライトの下に置き、彼女に向き直る。 白くしなやかに伸びる腕。そっと触れても折れてしまいそうな程に細い。思わず触れる事に、躊躇いが生まれる。 「 ふ……くしゅっ………」 前髪の隙間から覗く眉間に一瞬皺が出来る。が、すぐに消え亦穏やかな表情へと戻る。 本当に、能く眠っているものだ。 起こして自宅へ送り届けようかとも思ったが、こんな顔を見てしまっては起こすのに気が引ける。 ――――否、ただもう少し見ていたかっただけなのかもしれんがな。 しかし、ツインの部屋が一室のみ空いているだけで他が満室だと聞かされた時はかなり焦ったが、やはり宿泊して正解だったのだろう。このように熟睡されては、例え彼女の自宅に送り届けたとしても彼女は鍵を掛ける余裕も無く眠ってしまっただろうし。それに同室とは云え、俺が隣の部屋のソファーで眠れば問題は無い訳で。 「 ……ん」 「 っ!」 起きた、のか? いや、そうでは無いか。心臓が一瞬止まりかけた、が。 それにしても本当に細い腕だ。こんな細い腕で能くあの激務をこなせるな。 布団を少し捲れば、平たい身体と出くわす。 ――――――……否、ちょっと待て。 あの女性はブラウスまでも脱がしたのか!?どうりで先程から肩から腕までその細さが判ったものだ。 しまった、これでは今起きられると激しく誤解を生じさせてしまう……! 「 ……おやすみ、良い夢を……。」 急いで彼女の腕を布団へと入れ、元のように首まで布団を掛ける。 紅い顔をして気持ち良さそうに眠る彼女を見ていると、柄にも無くそんな言葉がふと漏れた。 もう少し見ていたいと、後ろ髪を引かれる思いもしたが部屋を出て静かにドアを閉める。 いつから俺は彼女をそういう風に見始めたのか、意識し始めたのか。始まりがいつだったのか、今となっては思い出せもしない。 気付けば彼女を特別視していた。彼女の事を少しでも、知りたいと思い始めた。 懐かしい感覚に、幾度歯痒さを覚えたか。 きみは知りもしないのだろうな、俺のこんな感情を。 院長に命ぜられたとはいえ、きみが俺の看病の為料理を作ってくれた時、嬉しくて、舞い上がって如何にかなりそうだった。いつも通りの冷静さを保つのに、どれだけ苦労した事か。 きみと対する時はいつだって緊張している。どんな些細な会話も、意識が飛びそうな思いでしている。自然な会話などすぐに浮かびやしない。 特にきみは俺を恐れているように見受けられたから……いつもビクビクとして、表情も硬かった。 嫌われているのかとも思っていたのだが、ただ怖がっていただけだったのだな。それを今日聞けて、少しだけ救われたようだ。 けど俺は、きみに何か恐怖心を植えつけるような事をしただろうか?そんな記憶は無いのだが……。 誤解だと、素直に伝えられればどれだけ気が楽になるか。 「 ……酒の力を借りても、云えそうにないな。」 ウィスキーを飲みながら、ぼやく。 心底自分の性格が、恨めしく思う。 伝えたい事を上手く伝えられない。素直に、言葉を掛けられない。 相手が気付くまで――相手の受け取り方に、任せている。 院長と皇さんに謀られたこの食事も、彼女は始終楽しんでいなかった。それは全くと云って良い。 高級ホテルのディナーだと喜んでいた彼女だが、相手が俺だと判った瞬間その色を消した。後に表れてくるのは、恐怖や戦慄、憂鬱といった類のもの。それでも食事だけでも楽しんでくれるだろうと思っていたのに、俺の考えは甘かったのか。 そんなに俺は怖いのだろうか。ワインをガンガン飲んで酔ってしまわないと食事すら出来ない程、怖いというのか。 俺が一体、何をしたと云うのだ。 「 どうぞ。」 「 えっ!?あ、ああ……ど、どうもすみません……ありがとうございます………」 「 ―――わたくしが致しますので……」 「 え?あ、す、すみませんっ……!」 顔を紅く染める。慣れぬ様子で焦りながら席に着く。 きちんとしたレストランでの食事はした事が無いと云っていたそうだが、初々しくて寧ろその様が可愛らしい。思わず頬が緩みそうになる。 タクシーでこのホテルに向かう頃からどこか落ち着きが無くほぼ無言だったが、それ程までに緊張しているのだろうか?所詮ただのレストランだ。社交場やなんやでは無いのだから周りは気にせず、いつも通りにしていればそれで良いのに……。 そう、いつも通り、明るく笑っていてほしい。 ……と云っても、俺の前ではその笑顔もすぐに凍てつき消えてしまうのだがな。テルや四宮達の前では、院長にすら平然と振る舞い笑顔を見せるというのに……テル如きに、忌々しい。 ふと顔を上げた彼女と眼が合う。 瞬間、紅かった顔が青白く変わっていく。 俺は幾度、これを経験するのだろうか。 彼女をエスコートしていた給仕の男性が続いて俺の方へと来て椅子を引く。それに合わせて着席すれば、すぐにメニューを持って来ると云いこの場を後にする。 何気なく一連の動作の流れで顔を上げれば、どこか一点を見つめていた彼女と亦目が合う。 案の定、次の瞬間にはもう逸らされている。それどころか首から動かされる。 俺は幾度、これを繰り返されるのだろうか。 面白くないと思うのは、致し方の無い事だろう。 彼女のこの動作が気に食わない。俺だけに向けられるこの仕打ちに、虚無感と同時に小さな不安を覚える。俺はそれ程までに、彼女に嫌われているのだろうか。もう手の施しようが無い程に絶望的なのだろうか。 俯く彼女の、顔が見えない。 周囲は食事を楽しんでいる人ばかり。けれど彼女には、楽しむ余裕も無さそうだ。俯いて、一切の動きを止めている。 耳に入るのは周囲の楽しそうな声、そして生演奏されているピアノの音色。 俺が聞きたいのは、そんなものじゃない。 「 ワーグナーのジークフリート牧歌、か。これをピアノで弾くとはな。」 探るように、切欠が欲しくて。 年齢差を考えても、悲しい事に共通の話題が見つからない。あるとすれば病院の事だが、流石に食事中にそれは無いだろう。 耳に入る音を、その儘言葉にしてみた。これが切欠になってくれれば良い……。 けれど彼女の反応は、肩をビクリと少し震わすだけで。悔しい事に、言葉が発せられる風では無い。 この雰囲気に気圧されているのか、それとも―――― 「 ……どうかしたか?」 せっつくつもりは無い。こう続けるのは、自然な流れ、だろう。 それでも顔すらも上げてくれず、俯いた儘。沈黙だけが寄越される。 彼女にここまで不愉快な思いをさせているのなら、いっそ食事もせずに退店した方が良いのかも、しれんな。 「 く――」 「 お……」 呼びかけたところでタイミング悪く言葉が重なってしまった。 ああ、これだから俺は。 次の言葉を待つと、ゆっくりと上げられる顔。けれどその顔色は蒼白としており、みるみるうちに泣き出しそうなものへと変えられる。そんな顔をされてしまって、俺は如何すれば良いんだ。俺はそんなにきみに、恐怖を与えているのか? 怯える彼女の後ろに、近付く人影。 タイミングが悪過ぎる。 失礼致しますと一礼し、ソムリエバッジを光らせながら先程俺達をこの席へと案内した給仕の男性がワインのメニューを差し出した。 彼女の顔を盗み見れば、助かったと云わんばかりの安堵の色を浮かべている。ありがとうございますと云いながら白く細い指がそれに添えられ、静かに開かれる。 この儘彼女の様子を見ていてもそれはそれで楽しそうだがそうもいかず、視線を彼女から手の中へと戻す。 ボルドーにブルゴーニュ、それにシャンパンやアイスワイン……。 流石と云ったところか、そう安くないものも並んでいる。フランスを主に、ドイツやイタリア、スペインまであるのか……。 ここは女性の意見を尊重すべき、か。 「 くんはどれが良い?」 食い入るようにメニューを見つめる彼女。やはりワインは好きで迷っているのか、なかなか顔が上がらない。 こう、きみの名前を呼ぶたびに、俺が感じている感情を彼女は想像した事があるのだろうか。たかが名を呼ぶだけで、話しかけるだけで、俺の脈拍が速くなっている事を、知っているのだろうか。 「 ――っ!!」 見つめる先の顔が上げられる。 その表情は恐怖でも嫌悪でも無く、優しい春の陽射しのような微笑み。 思わず鼓動が高鳴る。顔が、熱い。 それ程までにワインが好きなのだろうか。 「 ……くん?」 「 ……はい。」 呼べば落ち着いた声音で返される。 すぐに消されてしまった笑顔がちらついて、緊張に襲われる。 「 どれが良いか―――、好きなものはあるか?」 「 あの……」 困った様子で言葉を詰まらす。 迷っているのか。 「 遠慮せず好きなものを頼んでくれて構わん……。」 きみが微笑ってくれるなら、再びあの笑顔を見られるのなら、惜しむ事は何も無い。 ふいと伏せられた顔。長い睫毛が印象的な綺麗な顔立ち。しかしその表情は曇っていて……心配事でもあるのだろうか。もしや金額の事を気にしているのか? 「 ……どうした?」 「 いえ。……あの、その、北見先生と同じもので、良いです……。」 そう呟く彼女の表情は、硬い。 遠慮はしなくて良いと繰り返そうにもくどくなりそうだ。それに彼女は俺を、試しているのかもしれない。俺の、選択を。 これはハズせぬな、なんとしても。 「 ……そうか。」 もし彼女の好みに合わなければ、不味いものを選ぼうものならこの先にはこれ以上に絶望しか待っていないだろう。 俺の総てをかけてでも、これだけはしくじれない。 「 ……これの99年物を。」 「 畏まりました。少々お待ち下さいませ。」 メニューを渡し彼女を見ると、退屈そうに斜めを見ている。 ……無難過ぎた選択だったのか。つまらない男だと思われてしまったのか。それとも好きでは無いものだったのか?もし口に合わなければ……嗚呼、考えれば考える程に嵌ってしまう。答えの無い堂々巡りのようだ。 考えているうちにソムリエがワインを抱えて戻ってきた。 彼女はソムリエの声につられるように顔を上げ、彼の一挙手一投足を目で追う。 迷う事無く俺にテイスティングを求めるソムリエに応えたが、彼女にしてもらうべきだったのかもしれないと終わった後に思った。その双眸で俺を捉えてくれるのは嬉しいが、試しているようにじっと観察され、少し生きた心地がしない。 「 ……これで。」 「 はい、畏まりました。」 迷っていても仕方無い。自分を信じるしかないのだから。 ソムリエの流れるような動きを追う彼女の顔は少し険しい。 本当に、こういう場は初めてなのだろうか。 テーブルの上にワインが置かれ、ソムリエが一礼をして去った後、ふと目が合ったがすぐに逸らされる。 これは何を意味した動作なのだろうか。やはりワインが気に入らなかったとか……。 「 きみにテイスティングしてもらうべきだったか。」 楽しみにしていたものが、期待していたものと違うものが出てきてしまっては人間誰しも嫌なものだ。 俺はとんだ失敗をしてしまったようだな。自嘲の感情が、止まらない。 上げられた顔が歪む。 ああ、やはり。 「 ……いえ。私ワインはあまりいただく機会がありませんでしたから……。」 意に反した彼女の言葉に耳を疑う。思わず間抜けな声が漏れるところだった。 とても信じられない、ワイン名を伝えてから退屈そうにしていたのに……それとも俺はフォローされているのか? 「 じっと見ていたから……」 それはまるで観察されているかの如く。 「 いえ!そんな……ただ、」 慌てたように言葉を紡ぐが、そこで切られる。 ただ、なんだ? 促せば寄越される濁された言葉。それに続く沈黙。耐え難い、沈黙。 そっと外される視線。小さな溜め息。 俺との食事は苦痛でしかないのだろうか。俺と共に過ごす時間はただの苦痛でしかないのだろうか、恐怖や嫌悪の対象でしかあり得ないのだろうか。 俺の気持ちは、彼女にとって迷惑以外のなにものでもないのだろうか。 俺はただ、きみとの会話を、食事を、楽しみたいだけなんだがな……。 「 さっきの事だが」 「 はい。」 気になっていた事を聞こうと声を掛ければ、意外に早い返事と共に目が合う。 すぐに逸らされると思えばそうでもなく、俺の言葉を待つかのように真っ直ぐに見つめられ、少し、緊張が高まる。彼女にとっては如何でも良い事を聞こうとしているのだが、呆れやしないだろうか。 「 何か云いかけていたが、あれは何を云おうと……?」 適当な語尾が思いつかず、ついついいつものように切ってしまった。 情けない……仕事の話であればなんとかなるが、プライベートでこれでは……情けなさ過ぎる。 案の定彼女は困った様相で、その原因を作ったのは他ならぬ俺なのだが。要らぬ恐怖心を、亦煽ってしまったのだろうか。鬱陶しがられているのだろうか。考えれば不安の種は生まれ育つばかり。 「 さ……っきの、と、申しますと……」 途切れ途切れの言が返される。 「 ソムリエがワインのメニューを持ってくる前、のだ。」 もしやもう既にそんな記憶は消去されているのか……?見当もつかないといった表情が、映る。 「 ……くん?」 縋るように呼びかければ、 「 え?あ、ああ、はい、えっと―――」 今必死に手繰り寄せていますと答えが返される。 続く沈黙に息が詰まる。 耐えられそうにも、無い。 「 何を云おうとしていたんだ?」 悪いとは思いつつも、つい聞いてしまう。気になって気になって、仕方が無いんだ。 きみとの事だからこんなにも、知りたいと切望してしまう。それが結果的にきみを追い詰めてしまうのかもしれないけれど、それは相手がきみだからこそ……。 「 どうし」 「 北見先生。」 ドキリと軋む胸。 高鳴る鼓動は果てを知らぬのか、俺の意思に反して体温を上昇させる。 ただ彼女に名を呼ばれただけで、こんなにも揺らいでしまう。その怜悧な口からどんな言葉を聞かされるのか、入り混じる期待と不安。 冷静を装って、返す。 気付けばタイミング悪く料理が運ばれてきたところだ。つくづく今日の俺は、タイミングが悪い。 これでは亦彼女に誤魔化されてしまうのではないだろうか。 前菜が並べられウェイターが去ったところで小さな口が開かれた。 「 特に気にして戴くような事は何も申し上げようとしていません。」 笑う事も、焦る事も無く、涼しい表情で冷たくそう告げられる。 結局俺は亦この儘流されてしまうのだろうか。決死の覚悟で聞いたところで、煩いと冷たくあしらわれるだけなのか。 彼女の視界に俺は、映れないのか――――――…… この儘、何事も無く終わらすのは簡単だ。きっと彼女もそれを望んでいるだろう。 けれどそれで、本当に良いのか……? 「 ――――……俺が気になるんだが。」 その答えを考える前に口が動く。 「 そうですね、冷めないうちに早くいただきま―――――え?」 一瞬伏せられた顔が勢い良く上げられ、亦視線が重なる。 大きな目を一際大きくまばたかせ、驚きを隠さぬその表情のまま、数秒。 「 あぁの、ほら、折角の料理ですし冷めないうちにいただきましょう。」 ふいと顔を逸らし急くように促す。 余程、なのか、それともそんなに俺と共に過ごすのは苦痛でしかないのか。例えそのどちらであっても――彼女の本音を聞ける機会は無いのだろう。 「 と、取り敢えず、カンパーイ。」 ついと上げられたグラスの、表面が小刻みに波打っている。精一杯なのであろう作られた笑顔に、涙が見えるようだ。 これ以上の追求は、最早マイナスにしか働かん、……か。 「 ……なんて……あは、は………。」 「 ……乾杯。」 不本意ながら、グラスを上げる。 その儘傾け、云えなかった言葉と共に一口飲み込む。 急いては事を仕損じるとも云うし、ここはロングスパンで挑むべきか。そう思えば、少し口の端が緩む。 今は素直に、強制的にとは云え2人きりで食事をしているという事実を喜ぶとするか。――――イコール院長と皇さんに感謝をするというのは釈然としないが。 前を見やれば、ワイングラスを持ち上げたまま微動だにしない彼女。どうかしたのだろうか。 そう、ワインは数回目と云っていたからか、それとも品定めしているのか。 ――――コクン うん? 微かに何かが聞こえたと思ったのだが、今の音は…… 「 …………」 頬が紅く染まり、急激に蒼白へと変わる。 見つめ合えば、続く沈黙。 ―――と、おい!?そんな、一気に飲み干して大丈夫なのか!? タンと置かれたグラスのカーブにそってゆっくりと紅い色が一筋滴る。そこに注ぎ足される、同じ紅。 何事も無かったように水を一口含むと、俺を見る事も無く料理へとその白く細い指が伸ばされる。 何を話す事無く動かされる2本の腕。時折何かを思い出したかのようにそれはワイングラスへと伸ばされ…… これは、どうしたのだろうか。 ワインが不味かったのならばこう何度も飲まないだろうし、かと云って料理がそうだとも見えない。表情も無くただ機械的に腕を動かしているような、そんな感覚。それともやはりワインが気に入らなかったのか……別のものにするべきだったのか。 「 はぁ。」 深く漏れた溜め息が聞こえた。 顔を上げれば空の皿に、ワイングラスを持つ彼女が見える。 少し頬が紅いような……? グラスに入っているワインを飲み干し、再び深い溜め息が吐き出される。目は伏せられ、いかにも退屈だと、そう云いたげなアンニュイさ。 「 ……どうかしたか?あまり料理やワインが気に召さなかった、か?」 手を止め問うてみれば、ちらりと両の目だけがこちらに向けられる。 不覚にもその仕草に、色を感じ胸が鳴った。 「 料理とかじゃなくてねぇ。」 いつもと違う言葉に、心臓が跳ねる。 空になったグラスはテーブルに戻され、据わったような眼に、真っ直ぐ見据えられる。 「 なんかもう、駄目。」 ……駄目?なにが……一体どうしたんだ? 「 くん?」 先程までと空気が違う。表情は一切変えられず、まるでそれは能面のようで。 視界の端で、彼女のグラスに紅い華が再び咲く。 「 こんな事なら、韮崎先生達と一緒に行けば良かった。」 云って再び漏れる溜め息。 ニラサキ?とは、岩永のところの韮崎か? 何故か心臓が不規則に大きく脈打つ。 彼女は、酔っているのだろうか?白く細い指でグラスを持ち上げ、感想も無く静かに飲んでいるが、もしや酔っているのか?未だ3、4杯しか飲んでいないのに………。 否、しかしこれは、亦と無いチャンスかもしれん。今なら彼女は彼女の本音を惜しげもなく包み隠さず答えてくれそうだ。 ……酔った勢いに便乗するのは不本意だが、使わずに終わらすのは馬鹿馬鹿しい。 少しだけなら、許される……だろう、か? 「 ……韮崎とは麻酔科の、か?」 紅い頬の彼女を見つめる。心臓は飛び跳ねそうな勢いで、治まる様子を見せはしないが、これはきっとワインのせいだろう。 「 そう、麻酔科の。あー、韮崎先生達と一緒なら楽しめたんだろうなぁ。 こんな緊張しないでもっとリラックスしてフランクに、明るく。」 眉間に寄せられる、皺。もう一度深い溜め息を吐き彼女はワインに口付ける。 何故ここであの男の名前が挙がるのか……今日は飲み会にでも誘われていたのか? それにしてもこの状態、完璧に酔っているようだな。俺が誰かも判っていないようだ。緊張だのリラックスだの、それは俺のせいなのか、それともこの場のせいなのか。 「 ……緊張、しているのか。」 聞いてる俺の方が緊張している。間違いなく彼女は今、無防備な状態なのだからな。 タンとグラスが乱暴に置かれ、ワインが波打つ。 彼女は少しだけ身を乗り出し眉根を寄せた今にも泣き出しそうな顔で、してるよぉと告げる。 その行為に、少し焦る。 「 こんなちゃんとしたレストラン、しかも高級ホテルの高級レストランよ? 初めてに決まってるじゃない緊張しまくりよ!!」 「 そ、そうか……。」 縋るように云われ、上手い返しが思い浮かばない。 気付いたのだが、酔っていても何処に居るのかは自覚しているのか、彼女は凄む事はあれど声を荒げる事は、無い。 コクリと一口ワインを飲み、再びこちらへとその双眸が向けられる。 ワインのせいか、それは若干潤んでいた。 「 それに……ただでさえこんな場違いなところで緊張してるのに……」 そこでワインを飲む彼女に、問う。 「 場違い?」 「 そうよ、場違いよ。こんな若輩で庶民な私がこういう店に居るなんておかしい!」 「 そうか?」 「 そうよ。」 彼女が酔っているからこそ出来る、フランクな会話。それを思うと、可笑しさとくすぐったさがこみ上げてくる。 「 それに――ちゃんと聞いてるの?」 「 ああ、聞いている。」 「 笑ってない?」 「 そんな事は無い、続けてくれ。」 ワインを飲みながら。まるでそう、友達にする感覚で会話をしている。現実では先ずあり得ない事だ。否、これも現実なのだが、随分と現実離れし過ぎている。 それに戸惑いながらも順応し、楽しんでいる自分に気付く。とても有意義な時間だと―――例え相手が酔っ払いであっても。 ナイフとフォークから手を放し、彼女の話に集中する。 「 ええと、なんだっけ……。」 「 緊張がどうのと、」 「 ああそう、それね。それで、ね?そうよ、ただでさえ場違いで緊張してるのに、一緒に来てるのが北見先生なのよ?」 いきなり核心をつかれ、どきりとする。 何の準備も心構えも無く衝かれふと我に返る。それと同時に何を云われるのかと、不安が止め処無くあふれ出す。 「 そりゃあ緊張するでしょう!」 泣き出しそうな顔で首を横に振る彼女。 続きを聞きたいような、聞きたくないような……けれどこの先をと考えれば、聞けるのは今しかない訳で。 「 何故だ?」 ワインを一口飲んで、問う。もう後には戻れない。 「 何故って、判るでしょう?あの北見先生なのよ!?」 ドキリと軋む心臓。 「 ……嫌い、なのか?」 一息つくためか、彼女もワインを口に含んだ。 「 好きとか嫌いとかじゃなくて怖いじゃない。それはもう恐怖以外のなにものでもないでしょ。」 彼女の爆弾発言にも、潤んだ瞳に見つめられては次へと進まざるを得ない訳で。 それにしても、恐怖心……だけなのか? 「 ……嫌い、では、ないのか?」 我ながら大胆な事を聞いている。両手に汗を、握っている。 「 だから―――」 「 嫌いではないのだな?」 押し問答になりそうな雰囲気に、堪らなくなって言葉を遮る。 きょとんとする彼女は大きなその目をぱちくりと可愛くゆっくりまばたく。……起きてしまったのだろうか。俺が誰か、認識してしまっただろうかと、云って後悔をしても後の祭だというのに。 「 ……嫌いじゃないよ。」 大きく開かれた目が、再びとろんととけだした。 その言葉に、酷く安堵を覚える。つい息を、吐き出した。 「 嫌いとかそういう対象じゃないよ。北見先生は、怖い。」 嫌われている訳では無いと判っても、はっきりそう怖いと云われると感じるものがある。 胸に棘が刺さるような、感覚。 「 何故そんなに怖がる?彼が何かしたか?」 遠くを見つめる彼女に問いかける。何故そこまで、必要以上に怖がるのかその理由を。 「 ……してない。けど怖いのよ!」 そう云う彼女は必死で、その気迫に圧される。 それじゃあ理由になっていないのだがな。 「 何故?理由は?」 「 ない。けど怖い。」 そこまできっぱりと云われてしまっては、もうどうしようのない、のか………? 「 理由も無く怖いのか?」 諦め半分に聞くと、むうと眉間に皺を寄せグラスを持ったまま考え込んでしまった。 暫く考えていたようだが、クイとワインを飲み云った言葉が"特にない"。 これはもう、これ以上は望めないな。 「 ……なんというか、怖い。」 「 そうか。」 「 だって……怖くない?」 「 いや。」 「 ええー、嘘だー。」 自分を怖がる人間が、何処に居るというのだ。 「 怖いよー、恰好良いけど。」 何気ない一言に、ワインを噴きかける。少しむせて咳き込むと、心配そうな顔で大丈夫かと聞かれる。 これは……大丈夫では無い。 「 ……恰好良い?」 恐怖心の塊しか抱いていない彼女の口から、よもやそのような単語を聞かされるとは思わず、つい聞き返してしまう。俺の、聞き間違いだったのではないかと。 「 うん、恰好良い……。」 グラスから口を離し少し俯く彼女の頬が、一層紅く見えたのは気のせいだろうか。 聞きたい事は色々と、それこそ山ほどあるのに、言葉が上手く続かない。 はたと、目が合う。 「 今まではね、そんな事思わなかったの。もう怖過ぎて怖過ぎて、それどころじゃないって。 先輩達が恰好良いって云ってても理解出来なかったし。だって怖いんだもの!」 紅い顔で、そう力説される。 「 でもね、前に北見先生が風邪をひかれて何故か料理を作らされに行った時、初めてそう思った。 なんでだろう……完璧な北見先生に人間臭さを感じたからかな?」 何気に酷い云われようだ。まるでひとを機械かなにかのように。 けど、 「 ……その時、初めて思ったのか。」 「 うん。……色っぽさと一緒に、なんていうか、胸がいつもと違うドキドキを起こしてた。 違う意味で、緊張した……。」 伏せられる睫毛に、こちらが緊張を覚える。 面と向かい、彼女は意識せずともそう伝えられてしまっては、素直に嬉しく思う。 そしてそれと同時に、抱く期待。時期尚早だとは知りつつも、やはりと抱いてしまうものを止めようが無い。 「 ……今日は」 「 え?」 「 今日は、やはり恐怖心のみだったか?」 緩む口元が、いやらしいと思いながらも内から内からあふれ出す感情に、表情が緩む。 今まで見る事の出来なかった一面、知る事の無かった一面と出会い、少なからず満たされている自分に気付く。 「 ……ううん、そんな事。似合い過ぎてて、恰好良くて、申し訳無かった……。」 そして再び、伏せられる双眸。 予想だにしない答えに、焦る。 「 ……どう、して……?」 揺らぎそうな声を律し、優しく問いかける。そうすれば、申し訳無さそうに少しだけ顔を上げ、とろりと眠たげに、けれど色を含み潤んだ瞳が上目遣いに向けられる。 「 っ…………く」 「 だって、私、北見先生に恥ばかりかかせてしまったのも。 もう駄目だ、私北見先生に殺される。あの冷たい氷のような眼差しで射抜かれて殺されてしまう!!」 だからもう、うわあと、後は言葉にならなかった。 なんとかなだめすかし聞いてみれば、この目つきのせいか、いつも自分は睨まれているのだと、それで恐怖心が倍増するのだと。……こんなところでもこの目付きは俺の邪魔をするのか。 そんなつもりは更々無いのだが……こればかりはどうしようも無い、のか。 「 ああ、もう。」 自嘲していれば、一声上がる。 何事かと続きを待つが……来ない。 グラスは身体のまん前に置かれ、両手が添えられている。が、彼女本人は俯いたままで表情が読み取れない。 「 ……」 「 ………」 「 ……………」 「 ……くん?」 「 ……………………」 「 くん?」 手を振ってみても、顔を上げない。 これはまさか――― 「 くん、くん?」 ―――寝ている。 回り込み隣に立って肩を揺らすも、起きる気配が見受けられない。 これは、俺に、どうしろと云うんだきみは。 「 くん?起きてくれく――」 「 んん……ん………」 揺らした反動で彼女が…… 今思い返してみても、この展開は無いだろう。誰が予想出来るんだ。 至近距離に迫る彼女の寝顔。 仕合わせそうな、寝顔。 ホテルに空き部屋が無ければ如何なっていたのか。 考えられない、考えたくもない。 天国と地獄とは、まさにこの事なのか。 嗚呼、明日の朝、彼女が目覚めたらなんて云えば。 俺は今まで通り接する事が出来るのか……!? 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