温もりが欲しい。唯、温もりが欲しい。人間としての、最低限の温もりが、欲しい。 乾いた音が響く。 乾いた感触。 もうずっと、渇きのみを感じている。最後に温もりに触れたのはいつだろう。ヒトの温もりに触れたのは、何年前だったろうかと思ってはイノセンスを振るう。 エクソシストになってから命の休まる日など無く、いつもいつも乾いた感情と共に過ごしてきた。 暴れ回るアクマを破壊すれば人々からは感謝され、けれどその身内からは人殺しと罵られる事もあった。立ち寄った先でアクマに襲われる事も少なく無い。そこがイノセンスの保有地でなくともアクマは何処からとも無く湧き出てくる。それは世紀末だからなのか否か判りはしないが、アクマは休む間も無く産み出されエクソシストへと差し向けられる。故に、自分が行く先に面倒事を持ち込んでしまう事例もあるがそれは致し方の無い事で――と云ったところでアクマの存在を知る由も無い人々に理解出来る筈も無く、謂われの無い誹謗中傷を受け疎まれる事もしばしば。そしてアクマの根源を考えてみれば2人の人間と悲劇なのだから、幾ら与えられた使命とは云え、幾ら破壊する事でしかアクマを救えないのだとは云え、そこに何の躊躇いも感情も生まれない訳では無く、命だけでなく気の休まる日も時間も無い。 何度エクソシストを辞めようかと、何度任務を拒絶しようかと思った事か。 けれど何の因果か、生きている限りエクソシストは辞められず、体が動く限りは何度負傷しようが治療を受けて戦場へと駆り出されてしまう。いっそこの武器化したイノセンスが持てなくなれば、とも考えたが、そうなれば武器化を解いたイノセンスを体内に埋め込まれるのが関の山だと思い尽く。 嗚呼、私の人生は何処で狂ってしまったのか。私の人生は何処で狂ってしまったのか。 私は未だ、人間として機能しているのだろうか。 アクマの体内に突っ込んだ左手を抜き取り、そのまま強く握り潰す。鼻につく臭いに顔を顰めながら左手を伝うオイルを眺め、発動しているイノセンスでアクマを破壊する。 「……ついに四桁を超えたか……。」 ぽつりともらした言葉は冷えた風に運ばれる。 砂塵となったアクマの残骸が足元に絡み付く。焦点の定かでは無い瞳でそれを見て、彼らは救われたのだろうかと心の中で問うてみる。けれどその問いに答えてくれる者など居る筈も無く、乾いた風が砂塵を空へと舞い上げた。 「あ。」 「久しいな。」 通りすがりの小さな村で、珍しいモノと遭遇する。 広い世界に十数人しか居ないエクソシスト。任務でなければ行き先が被る事なんて先ず無いのだが、如何いう訳か今日は違った。今日に限って、違っていた様だ。 乾いた世界に彩う赤毛。同じ団服を纏うクロス・マリアンが目の前に現れた。 「相変わらずのやり方みたいだな。」 「あ……え、なに……?」 気の抜けた反動か、発動しているイノセンスを取りこぼしそうになり慌ててそれを追いかけ体を傾けると、刹那に真逆へと体重が移動する。何事かと顔を上げればマリアンが隣に立ち、自分の左腕を掴んでいる。意図が判らず困惑するもそれを意に介さずといった具合にマリアンは足を前へと動かし体を引っ張る。 「手が汚れている。行くぞ。」 そう云われ小さな村の小さな宿場の小さな部屋に連れ込まれたのが半刻程前。女将が淹れてくれたコーヒーを飲みながら相手の出方を伺うは少し居心地悪そうに目を伏せる。 アクマのオイルに汚れた左手は綺麗さっぱりと洗い拭かれ、白い素肌に生傷が目立つ。 コチコチと時を告げる壁時計。 左腕が、熱い。 向かいに座り紫煙をくゆらせる男に強く掴まれた腕が、オイルを洗い流す為にそっと触れられた手が。 無意識のうちに右手で掴まれていた左腕を擦っているのに気付き、誤魔化す様にコーヒーに手を伸ばした。 「そろそろか。」 ずっと続いた沈黙が破られたかと思うと急に視界がぼやけ、暗が拡がった。 「――――ん、ぅん……」 体が重い。 薄っすらと開いた眼には総てがぼやけて映る。思考の先も纏まらぬ頭その儘で、暫く何をするでも無く過ごす。意識の遠くでコチコチと何かが揺れる音だけがする。 コチコチコチ 段々と視界がはっきりしだし、体の感覚も徐々に戻る。ああ、確かそう私は――シーツの中。入らぬ力を籠め握りしめた小さな拳が掴むのは白いシーツ。寝ていたからか波打つシーツをそっと指先で撫で、緩やかな温もりの中もう少しと考える。 確かそう、私はエクソシスト。哀れなアクマを破壊し救済し、人間に仇名すノアの一族と千年伯爵を滅する任を請け負った、死を許されぬ小さな人間。闘う事を義務付けられた、戦場を駆け抜ける憐れな神の人形。いつからか温もりを忘れ乾いた風だけを感じていた、生ある傀儡。人々から恐怖され子守唄の代わりに悲鳴を聞かされる、聖職者。 コチコチコチコチ 視界がクリアになる。意識も自分の下に戻り、ぬるい体温を感じる。 何をしているの。お前にこんな微温湯に浸かってる暇は無いのよ。すぐにベッドを脱け出し戦闘服に身を包み緋色のオイルが流れ出る戦場に戻りなさい。命ある限りその拳を振り上げその足を動かし哀れなアクマにイノセンスの加護を与えなさい。 お前は温もりに触れる事の許されぬ神の下僕 「ひゃうっ!?」 思わず変な声が出て握るシーツを手離した。確かに今、何かが触れた。――私のお腹に。 どうして?此処には私しか居ない筈。……ネズミ?それとも――…… 「……手?え、手?人間の手?」 慌てているのか混乱しているのか、布団の中を二度見した。下着をつけた私の肌とは別の色の人間のそれが、横になる私の腰の上にダラリと置かれている。 しかも能く見ればこれは、男性のものだ。 冗談でしょう、頼むから誰か嘘だと云って。私はついに乾きに耐えられず人間の温もりを求めてしまったと云うの!?冗談じゃない、どうして私が。そもそも下着を上下共につけてる訳だからそういった事は起きてないと 「ひゃあぁっっ!?」 ぐるぐると回る頭を他所にもう一本の腕がシーツと私の体の間から割り入ってきた。これは、マズイ。っつーか下着に手を掛けるな誰だ貴様は!! 「―――――っん、な……!」 抱きしめようとする手と格闘しながら体を反転させれば見知った顔と出くわす。 冗談、じゃない。こんな事があって良いのか、こんな事が許されるとでも云うのか、一体何を考えているのだこの男は。一体、いつの間に、いつ、私は、私は如何して気付かなかった?抵抗、しなかったの?如何して受け入れた、受け入れてしまったの? 端整な目鼻立ち、睫毛を伏せ眠るその顔はまるでどこぞのモデルのように、綺麗。開けば汚い言葉ばかりを告げるその唇も今は静かに閉じ揃えられている。眠っていれば綺麗だ、と思えるのに。今のこの状況でなければの話だが。 こんな形でヒトの温もりに触れるなんて心外だ。私はこんな温もりが欲しかった訳じゃ無い。こんな温もりが、心地良いと感じてしまうなんて屈辱以外の何物でも無い。そう思うと羞恥心から顔が赤くなる。 ずっと切望していた温もり。 ――――マリアンの心地良い体温 否、違う。断じて違う。確かに人間としての温もりが欲しいとは願ったが、これは断じて違う。こんな事じゃ無い。こんな筈無い。なのに如何して私は泣きそうになってるんだ。如何してこんなにも満たされて…… 「……起きたのか。」 「――!」 目覚めたマリアンと目が合った。思わず体を反転させてしまったのは何故?如何して相手に隙を見せる様な、背中を向けたの?如何してもうずっと出てこなかったものが今になって溢れ出てくるの? 「おはようのキスくらいしても良いんじゃないか?」 聞こえない、何も聞こえない何も感じない。ヒトの温もりなんて、優しさなんて、もう私には関係無いんだ! 力を入れ始めた彼の手から転がる様に這い出た。冷たい空気に触れる体は徐々に熱を失っていく。彼が触れていた部分に残る温もりもこの冷気が奪ってくれるだろう。大丈夫、私はすぐに元に戻る。ヒトに触れられたくらいで熱を帯びる筈無い。私は神の使徒、神の愛にさえ触れていられれば他のものなんて何も必要としない。そんなものは、まやかしだ。 「……寒い。」 「…………布団にでも包まってれば良いじゃん。」 バレたかな。ず、と鼻を啜ったのは急に冷たい空気に晒されたからだと、思うだろうか。 「寒い。」 「……顔洗ってくる。」 冷気のお陰か、幾年振りに溢れ出た涙ももう止まった。けどこの儘じゃ顔を見られると泣いたのは火を見るより明らか。悪足掻きにしかならずとも、何もしないよりはマシだろう。顔を伏せ流れる髪で隠しながらバスルームへと足を向ける。見られたくない、見られれば恥も良い所。何食わぬ風を装いベッド横を通る。アイツは何を考えているのか、何を考えてこんな事をしたのか――否、何も無いのだけれど。貴様なら女に不自由しないんじゃないか。 「聞こえんのか、寒いと云ってるだろうが。」 「五月蠅いな、だから布団にでも包まってれば良いでしょ。」 「ほう、はオレが凍死しても良いと云うんだな。良い度胸だ。」 「部屋の中で凍死なんかするか。」 バスルームのノブに手を掛けようとした刹那、逆の手を引かれる。反射的に振り払おうとするも難無くかわされ私の視界は90度傾いた。眼前一杯に、綺麗な赤毛が揺れている。 私の乾いた世界に彩う、赤。 「放してよ。」 駄目だもう、何泣きそうになってんのよ。涙腺崩壊してんじゃないの?恥ずかし過ぎて今すぐこの場から逃げ出したい。 「放してよ。」 声が震える。駄目だ、駄目だ。踏ん張れよ。泣くな。 「泣けば良いだろ。」 こんな温もりに触れたからって、泣くなよ。お前はもう温もりとは無縁の者だろう。温もりなんて無くても死なないだろ。こんな温もりに心惑わされるな。 「生気の無い乾いた眼で見つめられるより涙で濡れた眼で見つめられる方が未だマシだ。」 温かいなんて思うな。肌と肌との触れ合いなんてお前には必要無いんだから。 「……バカ……うるさい……」 「涙は女の特権だ。」 気にせず泣け、欲しいものは誰にも遠慮せず手に入れろ。――――神も何も、関係無い。 そんな優しい事を云わないで。私の信念が崩れてしまう。そんな甘い声で囁かないで。誘惑に負けてしまう。 私はエクソシスト。哀れなアクマを破壊し救済するのが私に与えられた神様からの愛。私は神の傀儡、下僕、使徒。 それが私の誇り。それが今の私の存在理由。それが私の、総て。 だからお願い、私から私を奪わないで。 「恐れろ。そして慈しめ。」 私を私のままで居させて。 貴方の温もりに、優しさに、触れさせないで。 「――――――もう乾きなんか感じないだろ?……」 明日が、辛くなる。 |
神に
愛されし者