太陽が燦燦と輝く季節。熱波が照りつけ、うだるような暑さに身体も思考回路も鈍くなる。

「 アイツの誕生日が近い。……どうしよう、何をプレゼントすればアイツの心を掴めるの?」
北米支部の書室の一郭、小さな丸テーブルに意味ありげに十数冊の書籍を広げ頭を抱える。その顔色は宜しくない。
「 お酒?――でもそれじゃベタ過ぎるかしら……それとも葉巻?うーん……。
 ……遊女?…………………アイツなら喜ぶかもしれないけど――否、確実に喜ぶわ――
 私じゃない女性と一緒に居るところなんて見せ付けられても苛立つだけじゃない。でもそれじゃ、他に何が……?」
世界の銘酒、葉巻のすべて、月間舞台女優……等、およそとは疎遠な文字が踊る雑誌を捲っては眉間に皺を寄せ難しい声を上げる。その姿はただの恋に悩む乙女だが、遠巻きに彼女を見つめ熱っぽい視線を送る男性や尊敬の念を送る女性達には"仕事熱心な天才エクソシスト様"として映っている。それは彼女が無意識のうちに発しているオーラのせいだろう。人払いをした訳でも無いのに誰も一定距離を空け近付こうとはしなかった。そんな中だからこそ、はそのような雑誌に手を伸ばし云々と頭を抱え呻る事になったのだが。それでも勿論、カモフラージュは忘れず、エクソシストとして必要であろう関係の書籍も広げてはいた。(が、其方に目を落とす事は無かった)
「 ……コーヒー?アイツはお酒以外の液体を摂取するのかしら?……美味しい食事?っ女体盛り!?
 ひぃぃ――もう訳が解らないわ!!」
グルグルと巡る思考の中、小さな叫び声を上げ開いた雑誌の上に突っ伏す。その姿は難しい怪奇現象の原因を探り行き詰っているように見え、北米支部の男性職員はおろか女性職員すら胸を甘酸っぱくときめかせている。そんな彼等の淡い想いとは裏腹に、当の本人は生まれて初めての恋に四苦八苦しているのだが。悩める乙女とは、外側から見つめているとなんとも艶っぽく見えるものである。
「 ……ん?」
悩めるを通りがけに見つけた北米支部支部長のレニー・エプスタイニはその速い歩みを止め、書室のドアから彼女を数秒見つめる。思い悩んでいる様子に、その手の中の書類以上に心配を抱いてしまう。あの魔導師でもあるクロス元帥の再来かと噂されるエクソシストが山積みの本を前に険しい表情をしているのだ。エクソシストが悩む事柄、それはイノセンスかアクマかノアの一族しかない。声を掛けても良いものだろうか、果たして自分が彼女の役に立てるのか、邪魔なだけでは無いだろうか――様々な思いが胸を掠めるが、ぎゅっと拳を握り静かにへと歩み寄り、そっと口を開いた。
「 ――、だっけ?どうかしたの?」
「 っ支部長!?いえっ、なんでもないわ!」
レニーに名を呼ばれ我に返ったは勢い良く上体を起こし、およそ周囲が思い描く彼女とは縁遠い雑誌をレニーに気付かれぬように静かにかつ迅速に隠した。その隠した手をちらりとレニーに見つめられ冷や汗を掻くは、けれどふと頭の何処かで考える。仕事であれば相談出来る誰かが居る、けれどそれ以外の数少ない私事を相談出来る誰かが誰も居ないのは私だけなのではないか、それはもしかしてとても哀しい事なのではないか、と。目の前に居る年上の女性は、同じ働く女性として、人生の先輩として何かアドヴァイスをしてくれるかもしれない。此処でこうして会ったのもきっと神様がくださったチャンスだ、口を利けと強く手を握ったところで、戦争に身を投じている者が恋だの愛だののたまう姿は滑稽ではないかと気付き、開きかけた口を閉じて自嘲気味に微笑んだ。
その姿がとても痛々しく映りレニーは声を掛けた事を少し後悔した。やはり余計な世話だったのだ、と。けれどそれを覚られまいと書類を持つ逆の手で拳を作り言葉を探す。せめて本部を離れた時くらい、少しでも穏やかに過ごしてもらえるように、と。
「 あんたも大変ねぇ、エクソシストでありながらあのクロス元帥のお(もり)だなんて。」
レニーは広げられた本のページを指先でなぞり、上手に微笑む。
一瞬、クロスという名に反応しただったが、ふと息を吐いて目を伏せた。人前では変な力を抜こうとしての行為だが、そんな姿すら儚く見え、何故だか守りたいという衝動に駆られてしまう。彼女は最前線で闘う戦士であるにもかかわらず。その場に居る者の胸が、ツンと詰まる。
「 ええ、此処に来るまでも結構な労力を消費しましたわ。」
最終的にはお酒で釣りましたと続けるは、書室の小さな窓から見える遠くの山々を細めた目で眺める。刹那に、ざわめき立つ職員達の胸中は皆同じで、を労わるものだ。支部長であるレニーも短く息を吐き、の視線を追って声をもらし苦笑した。
「 でもエクソシストとしても科学者としても、あの人はとんでもない才能があるから。」
「 中身はアレですけどね。」
「 ああ、アレでなければ完璧なんだけどねぇ。」
腰に手を当て目を伏せるレニー。小さな窓の外を眺めていたは視線を彼女へと移し、酷く真面目な面持ちで見上げる。笑う事も無いに違和感を抱いたレニーはそっと目を開けへと顔を向け、その真剣な眼差しに胸を鳴らした。男でなくとも、ましてや女色家でなくとも、彼女に上目遣いで見つめられては息を呑んでしまい、次の言葉が上手く出てこない。ぷくりと柔らかにふくらんだ小さな唇が、ゆっくりと開かれる。
「 でも完璧な人間なんて居ませんから……。」
「 ……あんたが言うか。」
「 はい?」
「 いや、何でもないよ。」
からの意外な言葉に(しかも彼女は真面目に言っているものだから尚更)脱力したレニーは妙な間を作ってから、ぽつりと本音をもらした。自覚していないという事はなんとも罪深いと心の中で溜め息を吐き、ゆるゆると首を横に振った。
「 ……ところで、クロス元帥に見てもらいたいものがあるんだけどね。」
彼の居場所を知らないかと含めた言い回しをするレニーの手に、報告書という文字が並んでいるのを見つけたは、どうかしたのかと訊ねる。
「 ここの結界よ。最近少し出力が下がり気味みたいでね。」
そのの視線に気付いたレニーは手に持っている報告書をへと差し出した。並ぶ文字を目でさらい、ページを捲るとは暫く黙り込み顎に手を掛ける。そして最後まで読み終えると報告書をレニーへと返し、こう加えた。
「 私が見ます、多分解る筈。駄目でしたらあの酔っ払いを起こしますから。」
既にコムイから命ぜられた任務を終わらせたクロスに、それ以上の仕事を頼めるだろうか。答えは四分六で否である。一仕事終え一服しているクロスには既にアルコールを与えていた。例えアルコールが入っていたとしても、これくらいの仕事であればクロスの力量を以ってすれば何でもない事なのだろうが、問題はそんな事では無い。酒とイイ女が好きなどうしようもない天才男、それがクロス・マリアンである。知識と才能がある分邪険にも出来ず本当に扱い辛いヒトだと頭を抱えるのはコムイだけでは無かった。それに仕事を終えれば酒を与えると道中で約束していたは、酒を与えた後で更に仕事をお願いしてしまってはアイツは逃げ出すか更なる無理難題を吹っ掛けてくるに違いないと確信していた。そんな事になってしまっては、アイツの誕生日を傍で祝えないではないかと着地し、ひとりかぁっと顔を赤く染めては蒼いものへと変えた。プレゼントを如何するか、それを悩んでいたのだと思い出し。
「 頼もしいわね。」
真剣な表情で広げていた本を閉じるの言葉に賛辞を呈する。
「 ?一仕事終えて飲んだくれている男が?」
が、は一筋縄ではいかず、天然で切り返してくるものだから、そのギャップについ頬が緩んでしまう。声を出して笑う自分に疑問符を送り続けるが、とても天才と謳われているエクソシストだとは思えず、まるでどこにでも居る少々抜けたお嬢さんではないかと思うレニーはそっとの肩に手を沿え微笑む。
「 あんたの事よ。エクソシストにしておくには勿体無いわ。」
「 それは、どうも……。」
一支部を預かる程の器量の持主に認められたようで、は気恥ずかしくも嬉しく、頬を染めた。
「 こっちよ。」
「 ええ。あ、少し待っていただけるかしら?」
外へと促すレニーに、コクリと頷いただが、テーブルの上の書籍とソファーの下に隠した雑誌の存在を思い出し、それを片付ける為に腰を上げた。
「 ああ、それなら置いといて良いわよ。うちのに任しときな。」
近くに居る職員を手招きし呼び寄せるレニーに、慌てて自分で片付けると伝えるが、天下のエクソシスト様にそんな事までさせられないよと笑顔で返され、隣に並ぶ職員も同様に笑顔でお気になさらずと言う。が。
「 自分で出した物は自分で片付けるのがマナーだわ。5分も掛からないから、ね?」
切迫した気持ちを押し隠し建前を述べ、積んだ本と雑誌を持ってそそくさとその場を去った。一応任務は終了したとは言え、酒やら葉巻やらの雑誌を見ていたとは知られたくない。その理由が想いを寄せる相手の誕生日プレゼント選びだなんて知られた日にはもう二度と日の目を見られないだろうとすら思えたは、てきぱきと元在った場所へと本を戻していく。その姿を見つめるレニー達は、何処までも頑なで真面目な性格なんだなと微笑んでいた。

「 女は居ねぇのか女は!」
北米支部の一室からふざけた怒鳴り声が上がる。それが誰のものかなど、言葉を聞けば嫌でも解る。
「 クロス元帥、此処は遊里ではありません!仕事をなさって下さい!!」
「 仕事ならもうしてやっただろうが。おら、酒と女を持って来い!」
悲痛な叫びを上げる支部職員を一蹴するクロスはソファーに踏ん反り返って座り、手に酒瓶を握りしめ腕を振り回している。ひいっと頭を抱える者、もう嫌だ如何してあの人がうちにと半狂乱になる者、仕事だけしてさっさと帰ってくれと毒づく者と、クロスの周りでは男性職員が顔を蒼くしながらご機嫌取りをしていた。
「 こんな安い酒が飲めるか!もっと良い酒持って来い!!それに女は何処だ!?」
「 ひいぃぃぃっっ!!」
一仕事終え、酔っ払いと成り下がった男にワインボトルを投げつけられた一人の職員が涙を流しながら転がるように部屋を飛び出した。その後ろから尚も怒声続く、魔王が巣食う城と揶揄されるその部屋の半径数十メートル以内の女性職員の進入はいつしか禁止されていた。


支部の外、出入り口に立つレニーの許へ転げるように駆け寄ってくる数人の男性職員。その顔は汗と涙でまともに見られたものではない。
「 レッ、レニー支部長!!」
「 !どうしたの?」
ただ事では無いと窺えるその表情に瞬時に自身のそれを険しくするレニーに、男達は縋りつくように訴える。
「 クロス元帥が大人しくしてくれません!」
「 良い酒を、女を連れて来いと!!」
「 もうコールガールを呼ぶしか……!!!」
大の大人が揃って恥ずかしい、と本来なら言うところなのだろうが相手があのクロス・マリアンでは致仕方無いかと溜め息を吐くレニーはやれやれと頭を掻く。うちの可愛い子達を泣かすなんてやってくれるじゃないのと思う反面、頼んだ仕事はきちんと綺麗に仕上げてくれたのだからこれくらいは大目に見るべきだろうかとも思うと、頭の奥からズキズキと痛みが生まれいずる。そしてそれは、正確な判断の妨げとなるのである。
「 ……うちの女子職員は?」
「 姿を見せないよう言ってあります!」
「 よし。しかし……こうなったらワタシが相手するしかないのかしら……。」
そう呟くレニーに、周りを囲むようになんとか立っている男性職員達が顔面蒼白で口々に叫ぶ。
「 そんな、支部長が!?」
「 なりません!!」
「 無謀過ぎます!!!」
この世の終わりだと叫ぶ職員を宥め、でもあの人は女性には優しいでしょうと諭すように言葉を選ぶ。長い地獄を見てきた職員も、クロスの女性――とレニーと数名の接した女性職員――に対する態度を思い出し、そうですがと静かに項垂れる。それでも支部長を魔の手にみすみす投げ出す真似は出来ない、してはならないと。人生経験の豊富な支部長ならばなんとかあの魔王を上手く遣り込めるかも知れないが、そんなもしものような確率の低い賭けには出られない、人身御供になどさせられないと、レニーにもう一度考えるよう薦める。
「 っきゃあ!!」
ズシャッ、と砂が擦れる音が突然、通夜のような雰囲気を切り裂いて上がった。驚き音源へと視線をやれば、エクソシストの団服を纏った女性が地面に横たわっているではないか。それが誰か、理解するのに時間は掛からない。
「 ああっ!?」
「 大丈夫ですか!!?」
オロオロと口を開く男性職員を押し退け、レニーはの許へと走った。
「 いたたた……。」
「 ちょっと、大丈夫なの!?」
頭を抱えノロノロと起き上がるの許へと走り寄るとレニーは膝を着きを抱き起こした。団服に付いた砂埃を優しく叩き落とすと肩をがっしりと掴み瞳の奥を覗き込むように真っ直ぐの双眸を見つめる。薄く開いた瞳の先に映る人影に焦点を合わせるは衝撃による一時的な痛みに顔を若干歪ませ、ゆっくりと呼吸をする。そして瞳に映る人影がレニーだと確認するとふわりと微笑んだ。
「 ええ、結界の修理と調整は無事終わりました。これで大丈夫な筈です。」
お、本当だ直ってら、すげーと口にし感嘆する職員を他所にレニーは肩を震わせ、の肩を掴む腕に力を籠める。
「 そうじゃないわ!今落ちたでしょ、怪我はしてないの!?」
当然の問い掛けに、けれど力が入る。それは今目の前に居るのが女性だからでは無く、だからでは無く。
「 それなら平気ですわ。この団服丈夫ですし、落ちたり怪我したりなんて日常茶飯事ですから。」
にこりと安心させる為に微笑みかける目の前の人間の気遣いが、胸に痛いからでも無く。
「 本当に大丈夫なの!?頭は打ってない?骨は?立てるの!?」
「 大丈夫ですよ、大袈裟な……」
「 大袈裟なんかじゃないわ、あんたはワタシ達と違って大切な存在なんだから!」
目の前に居る線の細いという名の女性が、神に選ばれしイノセンス適合者だから。頭に血が昇り、冷静な判断が下せなくなる。エクソシストがどれほど貴重で重要な存在か、嫌という程知っているから。
「 支部――」
「 ワタシ達1000人の命よりも重いのよ、解ってる!?」
激しく揺れる瞳。その2つの瞳に鬼気迫る勢いで見つめられ呑み込まれそうになるが、レニーのその言葉を聞いたの表情は一変して険しいものへと染まる。まるでその言葉を拒絶するかの如く、色濃く。揺すられる肩に髪が踊るが、それも気にせずレニーの手にそっと自身の手を重ね、ゆっくりと口を動かす。
「 ……命の重さは皆平等よ、重いも軽いも無いわ。」
閉じられた瞼に、脳裏に浮かぶ情景。それはいつも特別扱いされていた自分。何をするにも大人が周囲をガッチリと固めていた。何をしても同一に微笑む大人達。自分を褒め、過保護に接する。同年代の知り合い等ほぼ皆無で、会うにしてもいつも大人の目があった。少しでも怪我をすれば誰かがすぐさま駆けつけ、丁重に手当てされた。それがずっと、嫌だったと思い出す。エクソシストに選ばれ、そういった世界から脱却出来ると思っていたが現実は変わらず同じだ。唯少し立場が変わっただけ、エクソシストへと。――否、変わったのではなく、エクソシストというファクターが付加されただけかもしれない。
「 そんな奇麗事はどうだって良いのよ!怪我は!?医療班を呼んで、早く!!」
しかし無情にも、バサリと斬り捨てられる自分の言葉。やはりこのヒトにも私の言葉は届かないのか、そう思うはふっと目を開け、自嘲するように悲しく微笑む。照りつける真夏の太陽に目を細め。
「 支部長、私なら大丈夫、少し尻餅をついただけです。他に、仕事はありませんか?」
その笑顔はとても綺麗で、見る者の目を惹く。例え本人が心の中で哀しみをキャンバスいっぱいに塗り拡げていようとも、自嘲の色の絵の具で描いていようとも、それを表には出さぬ術をは幾つも持ち合わせていたから。幼少の頃より叩き込まれた感情のコントロールがこんな場面で役に立つとは、それを教えた家庭教師達も思いもしないでしょうねと気付かれぬ程小さく口角を上げた。
とレニーを心配そうに囲む職員の頬はどれも桃色に染まり、口々にあのそのと口篭る。を抱き起こしたレニーも、未だ何か言いたげにしていたが、笑顔で返すにはこれ以上如何追求したところで別の答えを貰い受ける事は無いだろうと判断したのだろう、昂っていた感情を盛大な溜め息と共に真夏の乾いた空へと手放した。
「 ……もう無いわ、ありがとう。」
レニーの溜め息を見届けたは笑顔を深くした。
「 本当に大丈夫なの?」
「 ええ、ご心配有り難う御座います。さて、それでは引き上げるとしましょうか。」
立ち上がったレニーの手を借りふわりと優雅に立ち上がるは、先程と違う色の笑顔を見せる。そう、早く任務を終え、一人でじっくり色々と考えたい事柄があるからだ。にこにこと微笑む仮面の裏側では、眉間に深く刻まれた皺を持つ険しい表情が張り付き取れないでいる。けれどその上辺の笑顔に騙されてしまう職員達は、焦ったように口の中で言葉を発しどう伝えれば良いのかと迷っているようだ。その様子に"ん?"と小首を傾げるにK.O.される職員に裏手を入れ、レニーは溜め息を吐くも職員の反応に納得していた。
「 あの、クロス元帥は……?」
「 ああ、連れて帰りますわ。迷惑なさっているでしょう?」
「 うっ!いえ、その…… 」
「 迷惑と言いますか、」
「 何と言いますか…… 」
の微笑みに頭の中でファンファーレを鳴らし顔を染める職員達は互いに顔を見合わせ、言い難そうに口篭る。その言動でなんとなく予測をするはふうと溜め息を吐き困ったように笑う。その表情さえ、男性を虜にしてしまうのだから(本人の意思とは関係無く)つくづく罪作りな人物だとレニーは頬を緩める。そして職員に代わり、へと告げた。
「 酒と女を要求しているそうよ。」
団服に付いた砂埃を優しく払うレニーに頭を下げるは、刹那にカッと腹の底に火を点けた。教団支部にて既にお酒を与えたというのに未だそれ以上要求するのか、それも女性まで!今回着任してからずっと消えずに腹の中で燻っている感情が再び目覚め、珍しく人前で怒りを露にした。
「 ……アイツは、本当に………!」
小さく低い声で口篭れば、拳がふるふると戦慄(わなな)く。女性なら私が居るでしょう、私を必要としなさいよ、と。恋する乙女は時に修羅よりも深い業火を燃やす。
「 申し訳ありません、とんだ御迷惑をお掛けして……。」
項垂れながらも怒りに打ち震えるは目を伏せ感情を噛み締める。その言動が、とても儚く映り、まるで花を散らせたように見えてしまうものだから、レニーはおろか男性職員達のハートはガッチリと掴まれ、いえそんな、全然気になさらないで下さいませ、エクソシスト様が悪い訳ではありませんからとフォローする。その姿が甲斐甲斐しくも悲しい男の性だなと一人苦笑をもらすレニーはの肩をそっと叩き、屋内へ入ろうと促した。
「 あんたに謝罪されちゃ、あの人の蛮行も許さざるを得ないわね。」
「 ?私がエクソシストだから、ですか?」
「 そうよ。」
またもや斜めな返事をするに、この人は本物だと確信し微笑んだ。違います、貴女が美し過ぎるからです、貴女の美貌が麗しく、言動が愛し過ぎるからですと心の中で叫ぶ職員を連れ、達は建物内へと足を向けた。

ガーガーと騒がしい声が聞こえる一室。その手前数十メートルに女性職員この先進入禁止と書かれたプレートが掲げられていた事にうんざりしながら納得したは、キッと顔を作り扉を4回ノックしてその部屋へと足を踏み入れた。魔王が巣食う城と揶揄される、酒瓶が所狭しと転がるその部屋へ。
「 ――クロス元帥殿。」
ソファーに深く腰を沈め踏ん反り返っていたクロスだが、その凛とした音色を耳にするや否や表情を明るくしへと視線を移した。明るく、柔らかなその表情に、この人でもこんな顔をするのかと給仕する男性職員はあんぐりと口を開ける。
か!仕方ねぇ、お前で――――……そういや、今まで何処行ってたんだ?」
暫く振りの再会に喜ぶクロスだったが、コムイに命ぜられた仕事を終えてから一度もその可憐な姿を目にしていなかったと思い返し、問う。どうせ此処の職員共が隠してたんだろうと踏みつつ。けれどの口からは違う答えが返されるものだから、訝しげに見つめてしまう。当の本人はクロスに名を呼ばれ、ピクリと肩を跳ねさせていたがすぐにそれを掻き消していた。
「 外の結界の修理をしていたの。さぁ、仕事も終えた事ですし帰るわよ。」
「 ああ゛?まぁそう急ぐなよ。どうだ、飲まねぇか?」
「 遠慮するわ、職員から巻き上げたお酒なんて。」
深い溜め息を吐き米神に指を添えるをまじまじと見つめその手に荷物が無い事を確認したクロスは、仕事ならでなくオレに言えよと心の中で毒づく。どうせやらねぇけどなと加える事も忘れずに。自分の隣をパンパンと叩き座れよと促すのだが、扉の前で立ち止まったは首を振る事もせず溜め息だけを寄越す。オレじゃ飲むに値しないのかと自嘲するクロスは、人聞きの悪ぃ事を言うなと嗤う。
「 オレは当然の要求をしたまでだ。」
その言葉に、報酬に見合っただけのお酒は用意した筈だけどと睨みつけ、は米神に添えた指を腰に宛がう。
「 ……100歩譲って、お酒は良いわ。でも女性の要求は無くて?」
必要とするなら、まず私を呼びなさいよ。
「 酒にイイ女はつきものだろうが。」
お前がオレの前から居なくなるからだろ。だからオレは女を要求したんだ。
人知れず散る火花の奥に獣が見えるようだ。否、獣と言うよりは聖獣だろうか。バチバチと散らされる無言の会話は、それでも互いに同じものを求めていたが、それは当人ですら知り得無い事だった。知識と教養が備わっている分、子供のように素直に想いを伝えられない、大人の悲しい性。
「 ……女子職員を隠しやがってよ。」
本音を隠す為にもらされた言葉。けれどこれが次の火花の着火剤になるとはおくびにも思わぬクロスは溜め息を吐き右手に握るワインボトルを傾けた。はその言葉に、鼻で笑う。
「 適確な判断ね。」
の嘲笑う物言いに、つい反応してしまうクロスは天井を仰いだまま視線だけをへと向ける。
「 ああ゛ん?」
「 貴方の側に女性職員を置くなんて、人身御供も良いところじゃない。」
「 言ってくれんじゃねぇか。」
如何してそんなに女性が必要なのよ、如何してそんなに高潔なんだ、私・オレが入り込む余地が無いじゃないか。聖獣が火花を散らす瞳の奥には互いに哀しみを秘めているのに、素直になれない故に目が曇ってしまいそれが見えない。どんなに想い合っていても、言葉にしないと自分の気持ちは他人には伝わらず、亦、他人の気持ちを知る事も出来ない。推し量る力を以ってしても、所詮他人の胸中なぞ決して覗けはしないのだから。曇った目では殊更に。
これ以上何を言っても埒が明かないと踏んだは短く息を吐き、外を指差す。
「 ほら、行くわよ。」
「 あ゛ー、酔いが回って動けねぇなぁ。」
まるで子供のように笑って踏ん反り返るクロスはそう言うなりボトルを傾け咽喉を鳴らす。イラッとした表情を垣間見せたは早くと催促するがまるで効果は無く、ソファーに根を下ろした酔っ払いはただただ耳障りな音であーう゛ーとだれた声を上げる。
互いに積もる苛立ちは、言葉素直に伝え合えば氷解するというのに。それが出来ないのは、プライドや柵が邪魔をするから。
むぅっと眉間に皺を寄せた厳しい表情のに見下した表情のクロス。互いに自分の主張を通そうと、譲るつもりは更更無い様子だ。数分間の重い沈黙が鋭く続いたが、ぷつりと切られる。妥協案を出すのは、いつもだ。
「 ……元帥の名が、聞いて呆れるわね。」
けれどクロスも、を困らせたい訳では無い。ただ傍に居て欲しいだけだ。隣で微笑んでいて欲しいだけなのだ。それを素直に表現出来無いから、子供のようにちょっかいを出し結果的に困らせてしまっていた。否、純粋な子供で無く、知恵も行動力もある分、その屈折した愛情表現は迷惑以外の何物でもないのだろう。微笑んでくれないのであればせめて構って欲しい、自分をその瞳に映して欲しい。その為であればクロスだって歩み寄りをする。横柄な物言いではあるけれど。
「 お前が飲んでくれんなら行ってやるぜ?」
ニヤリと不敵に笑うが、その胸の内は嵐だ。どうせ馬鹿な事を言わないでと一蹴されるに決まっている、いやしかし、もしかしたら了承してくれるかもしれない。此処へ来るまでにも一度、は折れてくれた。しつこく言い続ければ今回も折れて隣で飲んでくれるやもしれん。いやいや、そんな甘い考えが簡単に罷り通る相手でもないな……と、らしくなくネガティブ思考も交錯している。
が、次のの一言により総ては綺麗さっぱり吹き飛ばされる。
「 解ったわ、飲みましょう。」
「 ……あ?」
クロスの顔に喜色が浮かぶ。
「 外で。此処に居ると支部の迷惑にしかならないもの、だから飲むなら外で飲みましょう。」
そう告げるの表情は硬い。さっさとオレとの任務を終わらせたいが為の口から出任せか、そう探るクロスだが、がこれまでに一度も口にした事を守らなかった例がが無かったのを思い出し、胸に花を咲かせる。
此処で飲んでいては気が抜けない、いつ本部から別の任務を言い渡されクロスと離れなくてはならなくなるかも解らない。それならば外に出て、本部まで連れ帰る方が比べるまでも無く得策だ。例えクロスが他の女性を追ったり肩を抱いたりしても。隣に居られるなら、共に飲めるなら、多少の事には目を瞑ろうと顔を赤く染めているのを、以外の誰も知らなかった。
「 ……お前も飲むのか?」
これは夢だろうか、そう疑うクロスは側に落ちている空の酒瓶を蹴り上げ、跪く男性職員に当てた。鈍い音と共に痛いという短い悲鳴が上がり、これは夢ではないのだと頬を緩める。
「 付き合うわ、仕事もきちんとこなしてくれたし。……それとも相手が私では不服かしら?」
「 上等だ。」
互いに不敵に笑い合い、火花を散らしていた聖獣を消した。
酒瓶を当てられた男性を心配し声を掛けるの気を取り戻す為、クロスは急いで口を開く。
「 支払いは経費で落とすのか?」
こう言えば必ず顔を見て言葉を返すと理解しているクロスは余裕たっぷりに笑うが、その胸中はオレ以外のほかの男にその綺麗な手を触れさせるなお前が汚れると、だらしなく頬を緩める男性を睨みつけている。クロスの思惑通り顔を上げたは、冗談じゃないわと言ったように目を細めクロスを見つめる。
「 あのルベリエ長官が落としてくれるとでも?気にしてくれなくて結構よ。」
「 ほう、強気だな。泣いても知らんぞ?」
「 出来るものならどうぞ。」
貴方と過ごす貴重な時間を仕事にしてたまるものですかと口を結ぶの口元も、僅かに緩んでいる。胸中は今にも鼻歌を奏でスキップをしそうな程、舞い上がっているのだ。
「 取り敢えず出るわよ、準備して。」
早く早くと急き立てる気持ちを抑えあくまで冷静な声音でそう告げると、クロスの周囲に居る男性職員が空瓶の下から黒い箱を探り出し、クロス元帥のお荷物は此方です、どうぞと目を輝かせながらへと見せる。それを見たはくすっと声をもらして苦笑し、ありがとうと微笑んだ。その優しい微笑みを向けられた男性は顔を紅潮させ、とんでもないですと言ったところで頭に空の酒瓶を受け取るのだった。無言でクロスを睨むだが、クロスはフンと鼻を鳴らしワインボトルを傾ける。ごめんなさいねと眉を下げるはクロスへと刺々しい声だけを投げかける。
「 エントランスで待ってて。それとお酒は置いて行く事。」
「 ああ゛?勿体無ぇだろ。」
そう睨み返すクロスに、扉の前で踵を返すはビシッと指を差し、今すぐ此処で飲み切りなさいとだけ告げると静かに部屋を出た。ガチャリと扉が閉まったのを確認すると、心の中で良し!と叫び満天の笑顔を作り、足取り軽く自分の荷物を取りに行った。


が荷物を手にエントランスホールに着くと、トランクに腰掛け煙草を吸うクロスの隣にレニーが立ち、それを囲むように教団職員が男女合わせて並んでいた。
の姿に気付くと、レニーは微笑み片手を上げる。
「 世話になったわね。」
「 此方こそ、元帥殿が御迷惑を。」
「 気にしないで、それ以上の働きをしてもらったわ。」
「 当然だ。」
会釈をするの肩をそっと撫でレニーは首をゆるく横に振り、不遜な態度で紫煙を吐き出すクロスの言葉に笑った。そのサバサバとした性格には心の中で拍手を送る。胸中はいざ知らず、こんな態度を崩さないクロスに対して殆ど嫌味も言わぬレニーに、器が大きいのだなと思い自分も見習わなければなぬなと苦笑する。
「 気をつけて帰るのよ。元帥、守ってあげなさいよ。」
「 身を挺して守ろう。」
当然だ、この世の女は総てオレの女だからなと咽喉を鳴らすクロスに、寧ろその方が危ないんじゃないのかと小声が上がり、どよめく周囲。
様、くれぐれもお気を付けてお帰り下さいませ!」
「 ええ、ありがとう。」
男性職員に力強く手を握られ少々驚くは、それでも多少強引な事をされてもクロスならと思い、ほんのりと頬を染めはにかむ。その向こう側で、音も無く静かに立ち上がったクロスはの手を無断で握りしめる男性の項に煙草の灰を落とした。ギャアッと上がる悲鳴が木霊する。の両手を握っていた手を放すと自身の首の付け根を押さえ涙を流し飛ぶように退った男性を見てきょとんとするは、煙草を咥えるクロスに何かしたのと訊ねるが、別にと返され疑問符を震える男性へと送る。
「 少ないけど路銀だ。それから水と食料。」
まるで子供の嫉妬じゃないのと呆れるレニーは咳払いをし、の手に麻袋を握らせる。それからおずおずと前に出て来る女性職員の肩を抱きウィンクした。恥らう女性は下を向き口を噤んでいたが、が路銀の入った麻袋を団服のポケットに仕舞うのを見届けると、意を決したように食料の入った紙袋をに押し渡しどさくさ紛れに抱きついた。バランスを崩しそうになるは踏みとどまり、揺れる頭でなされるがままに棒立ち、顔を上げた女性職員と目が合うとありがとうと微笑みかけ右手を差し出す。顔を真っ赤に染める女性は瞳を潤ませ、力いっぱいの手を取ると上下に振り小さく震える声でお気を付けてと伝えた。にこりと笑うと目の前の女性が勢い良くスライドし、別の女性職員が手を握り水の入った瓶を手渡してきた。
「 悪いわ、気を遣っていただいて。」
「 まぁ、餞別よ。しっかりね、室長にはワタシから連絡しておくから。」
「 有り難う御座います。」
綺麗に微笑むに、お礼を言うのはこっちよと微笑み返すレニーは強くを抱きしめた。慈しむように、噛み締めるように。チュッと音を鳴らして離れると、少々不機嫌であろうクロスを視界に捉え苦笑する。
「 亦会える事を祈ってるよ、。」
「 私もよ、支部長。」
小船に乗り込み荷物を積むと、レニーがそう口にした。腰を下ろそうとしていたは立ち上がり、柔らかく笑う。
「 さようなら。ほら、元帥殿も一言くらい。」
「 次来るまでに女と酒を充実させとけ。」
「 酔っ払いの戯言です、気になさらないで下さい。それでは。」
ティムキャンピーを頭に乗せたクロスが紫煙と共に吐き出すと、はぴしゃりと斬り捨てた。ゆっくりと小船が水路を進み、手を振るレニー達に手を振り返し、も腰を下ろした。薄暗い水路を静かに進む小船は船頭の立てる水音だけを響かせ、光の中へと溶けて往く。



「 クロス元帥殿。」
眩しい夕陽が輝く西の空。グラデーションの美しい乾いた空の下、ガタゴトと揺れる黒い馬車の中で対角線上に座るクロスを見つめ、は溜め息を吐いた。
「 なんだ。」
「 !……別れ際くらい印象を良くされては如何です?無駄でしょうがなさらないよりはマシではなくて?」
心臓を鷲掴みにされたはそれを覚られまいと平静を装い、会話の切欠を作る。それがツンツンしたものであっても、お酒も無い無言よりは余程有意義だと、高揚する気持ちを抑えつけ口を開く。
「 オレには必要無いな。で、宿は何処に取るんだ?」
速攻の閑話休題にも顔色一つ変えず、は窓の外の沈む夕陽を眺めながら口を動かす。
「 近くが良い?それとも少し離れた所?」
「 ……女が居れば何処でも良い。」
「 コールガールは呼びません。」
本当は2人きりで、教団の手が届かない所へ逃げたい。そこで心ゆくまで2人きりの時間を堪能したい。そう願うのはクロスだけではない。けれどそれは許されぬ夢のまた夢、夢幻の戯事だ。
「 この先少し行くと街があるから其処で良いかしら?」
「 酒はあるのか?」
「 ホテルはあるけれど期待はしない方が良いと思うわ。」
「 フン、つまらんな。」
紫煙をゆっくりと吐き出すクロスの右手から煙草を取り上げ、膝の上に座るティムキャンピーにそれを食べさせるとゴホンと一つ咳をした。長い尻尾を愛でるように撫で、は目を伏せ深い溜め息を吐く。
教団(ホーム)に帰れば取り寄せる事も可能だけれど。」
それでは少々残念だ、と心の中で続ける。折角、もうすぐクロスの誕生日だと言うのに、教団に帰ってしまっては祝うどころかプレゼントを贈る事すらままならない。この儘外に居れば、何かと理由をつけワインの一本でもプレゼントする事は可能だが、教団に居てはそれも不可能となってしまう。意味も無く高いお酒を贈っては、その裏を勘繰られてしまう。それに必要以上の接触は何故か禁じられていたのだ。如何して私だけ、他の女性職員やエクソシストも居るのにと、不満で仕方無かった。
「 お前も帰るのか?」
クロスの乾いた声に、は我に返った。
「 貴方を送り届ける義務が私にはありますから。他に任務が入らなければ真っ直ぐ帰るわ。」
義務も責務も投げ出して、貴方と共に過ごしたい。そう想うようになったのはいつからだろうか。それは初めて会った時からだったのか。
「 ホテルに寄るんだろ。」
「 帰り道よ。」
「 …… 」
沈黙が支配する馬車の中、見つめあう2人の視線が離れたかと思うとクロスは扉に手を伸ばし開けようと試みた。だがその試みも儚く崩され、白く細い指が団服の上からクロスの腕をがっしりと掴み、耳をティムキャンピーがその鋭い歯で齧る。
「 ク・ロ・ス・元・帥・殿。逃げないの。貴方に逃げられると私がルベリエ長官にお仕置きされるのよ、解ってる?」
お仕置きの言葉に不埒な想像をしたクロスの耳に、食い千切らん勢いでティムキャンピーが牙を立てる。その痛みに、少々顔を顰めた。
「 ルベリエ如きがエクソシストに何が出来る。」
「 さあ?体内にイノセンスを埋め込むとか?あとは―――― 」
「 ………… 」
「 ……冗談よ。貴方が逃げなければ済む話、でしょう?」
「 ……ああ、そうだな。」
クロスの腕を掴んだままけらりと軽く笑って言ってのけるの言葉を遮ったのは、眼鏡越しのクロスの鋭い隻眼。はらりと揺れる長い髪の隙間から覗く隻眼は強く切なく見開かれ、小さく揺れていた。が冗談だと言った例え話が笑えるものでは無かったから。かつて教団が公的に進めていた実験に他ならない話だ。クロスのその強い眼差しに言葉を閉じたは、自分はタブーか何かに触れてしまったのかとバツが悪そうに息を呑み、話を元に戻した。こんなクロスの表情は、今までに一度も見た事が無く、若干の畏怖すら抱いてしまった。怯えた、それを捉えたクロスははっと我に返り、耳を齧るティムキャンピーを払い除けシートに座り直し緩やかに口を開く。
「 一緒に逃げれば済む話だ。」
まるで今のリアクションも冗談だと言わんばかりに強く真剣なトーンで話すクロスは、自身の腕を掴むの手を取りずずいと迫る。が、発動したイノセンスを首に突きつけられ、敢え無くあしらわれてしまう。
「 もう、如何して教団に寄り付かないのよ。」
膝の上に座るティムキャンピーを優しく撫で、は呆れた口調を投げる。酒も無く、煙草を吸う事も許されぬクロスは手持ち無沙汰に、側にあった水の入ったボトルを拾い上げつまらなさそうに暫く見つめた後、コルクを抜いて口付けた。
「 あれこれ小煩く言う奴が多い。」
「 あれこれ五月蠅く言われるような態度だからでしょう?」
同意を求めた訳では無いが、こうも綺麗に斬り捨てられてしまっては男として面目が立たない。もう一口水を飲むと、クロスは寂しげに目を細めて肩を落とした。
「 ……よ、女は黙って男に従うものだ。」
「 相手に因るわ。」
ガタゴトと揺れる黒い馬車の中。対角線上に座る男女はこれ以降目的地に到着するまでその唇を開く事は無かった。空一面に拡がっていた美しいグラデーションも、濃紫と漆黒へとその姿を変えていた。



街に到着した2人は其々に荷物を持ち、ホテルのドアをくぐった。クロスの服の袖を掴むは肩にティムキャンピーを乗せ、クロスを引っ張りながら取り敢えず部屋に荷物を置いてそれから飲みに行きましょうと提案する。引っ張られるクロスは懐から煙草を取り出し、部屋のみでも構わねぇぜと笑い煙草に火を点けた。先を行くが、足を止めずに振り返る。
「 私が構うの。」
じとりと睨まれるのだが、身長差がある分如何せんそれが上目遣いになってしまう。怒られているのに、その表情すら愛おしい、と思うのはクロスが想いを寄せるからか、の美貌のなせる業か、はたまたそのどちらもなのか。フロントに着いたは足元に荷物を降ろすとペコリと会釈をし、すみませんが部屋を用意していただけますかと口を開く。淡々とした口調だが、ついつい聞き入ってしまうのだろう、彼女を見つめる視線が時間の経過と共に増えていた。
「 シングルを2部屋――……否、ツインを1室、お願いします。」
「 ! 」
「 畏まりました、少々お待ち下さいませ。」
咥えた煙草の灰が落ちた。聞き間違いだろうかとゆっくり瞬き、背を預けていたカウンターへと振り返れば、宿泊名簿に『ツイン1室 黒の教団 男女1名ずつ』と綺麗な文字が並んでいる。おいおいこれはどんなサービスだよと鼻息を荒くしていると沈む程腕を引かれ、凛とした表情のが眼前に広がる。
「 荷物、貸して頂戴。」
喜びにリアクション出来ずに居ると、に・も・つ、と繰り返され繋がっている逆の手を差し出された。一拍置いて荷物を持ち上げれば、差し出す前に取り上げられベルボーイへとこれもお願いしますという声と共に渡っていた。
「 さ、飲みに行くわよ。」
「 …… 」
くるりと振り向いた顔はいつもの凛としたもので、其処に喜色や柔らかさは見受けられない。その割りに豪くテキパキと事務手続きを済ますものだなと不思議に思うクロスだったが、言われるままに腕を引かれ外へと連れ出される。どうせなら部屋で飲みたい、そしてその儘酔ったを手厚く介抱してやりたいものだと邪な妄想をするクロスはふと、そういやが酔った姿を見た記憶が無いなと思い返し、腕ではなく手を握れとその白い手を見つめる。
うきうきと足取り軽くホテルのロビーを歩くは頬を緩めていた。
「 すみませんお客様。」
しかしドアをくぐる前にフロントの男性に肩をそっと叩かれ、スキップをし出さん勢いの足を止め、ゆっくりと振り返った。そして見上げる先の身形のきちっとしたフロントの男性の手にメモが握られているのを見つけ、見る見る表情を険しくする。
「 ……私、に何か?」
「 はい。黒の教団室長と仰る方からお電話がありまして、急を要するとの事で御座います。」
「 ………此処に居なさいよ、良いわね?
 すみません、この人を見張ってていただけますか?ええ、宜しくお願い致します。電話はどちらに?」
「 此方で御座います。」
数秒フロントの男性と見つめ合ったはクロスに向き直ると凄むように言い放ち、近くに居るドアマンに逃げ出すようであれば力尽くで止めて下さいと頭を下げると、フロントの男性の後に大人しく従い電話へと歩く。残されたクロスは、自分と距離を測るようにジリジリと近寄るドアマン達を睨みつけ、紫煙を吐き出す。その周りをティムキャンピーがパタパタと飛んでいる。フロントに戻ると、ドアの側にクロスが居るのを確かめながらは受話器を持ち上げ耳にそっと押し当てた。
「 ……もしもし、です。」
ザラザラとしたノイズの奥から、能く聞きなれた能天気な声がやって来る。
『 ああ、ちゃん?まずはお疲れ様、ありがとう。
 北米支部長から電話貰ったよ、クロス元帥もちゃんと働いたそうで。ホントありがとね。』
何故かそれが胸をチリチリと焦がす。――何故かなんて、解りきっているけれど。
「 それは良いから、急用って何?」
そんなもの、聞かずとも大体解っている。解っているけれど、聞いて確かめずにはいられない。アイツがいつまでも大人しく紫煙を燻らせている筈もなし。違っていて欲しいと願うのは、ただのエゴでしかないけれど。
『 うん。実はね、その近くでイノセンス絡みと見られる怪奇現象が起きてて…… 』
「 …… 」
ほら、きたわ。――目を細め、立ち尽くすクロスを見つめていたは静かに目を伏せる。終わってしまった、果たして終われるだろうかと。
『 悪いんだけど向かってもらえるかい?』
その言葉に、否定の声は届かない。拒絶する事も叶わない。何故なら私は神に選ばれし使徒だから。私の総ては神とその御心の為だけに存在する神の傀儡だから。
そっと目を開けるの表情には、喜びの色も哀しみの色も無い。ただあるのは、瞳の奥からあふれ出る決意と従属心。信頼に応える為には血を流す事も厭わぬ強い心。
「 私達が一番近いのね?私は良いけれど、……彼は如何すれば?」
スイッチの入ったに、最早届くのは神の声とそれを伝える者の声のみ。己の感情さえも排斥され、其処に残るのは闘いに身を投じる意思のみ。
『 ボクもそこが心配で、他のエクソシストを向かわせようかとも思ったんだけど、時間が惜しいし…… 』
「 ええ、そうね。」
『 其処に置いとく訳にもいかないから、一緒に行ってもらえないかな。』
「 ……大仕事ね。」
短く返すに選択肢など無く、ただ与えられた神命に従うのみ。苦笑する事も自嘲する事も忘却し、まるで機械のように単調な声音を返す。その声が、コムイの胸を締め付けているとも知らずに。
『 ごめんねちゃん……。』
「 コムイ室長が謝罪する事柄ではないわ。何処へ行けば良いの?」
『 うん、其処から―――― 』
受話器を耳に押し当てクロスに背を向けるはペンを滑らせ、受話器と共に溜め息を一つ置いた。

「 お酒は少し待っていただけるかしら、クロス元帥殿。」
「 ああ゛?」
フロントと少々話し込んでいたは戻って来るなり開口一番こう伝える。つい嫌な声を出したクロスはそれでも、の機微に気付き顔を顰めた。その単調な声音は、特定の事象にのみ使用されるものだと思い出し、心の中で舌を打つ。
「 近くでイノセンスと思しき怪奇現象が確認されましたので直行致します。」
やはりかと小さく項垂れるクロスは思い切り紫煙を吸い込み、そしての顔目掛け吐き出した。
「 ンなもん他の奴に行かせりゃ良いだろが。」
「 私達が最も近いのです。」
「 オレは行かねぇぞ。」
「 ご同行願います。」
「 断る。」
紫煙を気にも留めず淡々と口を動かすは女神のように麗しい。けれどそこに、愛らしさは感じられない。人間を誰一人として近づけさせぬオーラを纏う姿はまるで修羅か羅刹鬼か。目を見張るが、決して手を伸ばそうとは思えない。神の寵愛を受けし人形と揶揄される所以は此処から来ているのかと目を閉じるクロスは苦虫を噛み潰す。こうなってしまってはもう誰の声も届かない、そうコムイから聞かされていたから。ミッションモードに入ると、任務を終えるまで決して誰の言葉も耳にしない、それが今のなのだと馬鹿でも解る。
「 千年伯爵に先を越されても構わないと仰るのですか?」
命を顧みず、只管に任務に忠実で、神の御心に従順で。誰もその双眸に映さない高潔な女性。
「 だったらお前一人で行け、オレは此処で飲んで待っててやるよ。」
理解していた筈なのに、畏敬の念を抱いてしまう。
「 そのお言葉を信じられるならばこうも申し上げません。同行せよとコムイ室長から命が下されています。」
理解していた筈なのに、湧き上がる畏怖。
「 行ってたまるか。」
「 イノセンス回収と保護、何よりも優先すべき任務です。」
初めて目の当たりにして衝撃が走ったのか、何故か逃げ出したい衝動に駆られた。何故か?何故かなんて考えればすぐ答えに辿り着いてしまう。
「 ……っ相っ変わらず堅い女だなお前は!」
嘲るようにハッと声を出し一笑するクロスは短くなった煙草をティムキャンピーに食べさせ、新しい煙草に苛苛としながら火を点けた。一瞥したはクロスに視線を外され、そこではぁとひとつ溜め息を吐いた。そして自身の腕をぎゅと抱きしめ、俯く。
「 出来る事なら私も行きたくないわ、今回だけは。」
ぽつりともらされた言。それはクロスが吐き出す紫煙の音にすら掻き消されてしまいそうな程、弱々しく小さな音。苛立ちをぶつけるように外を睨みつけていたクロスは煙草の灰をティムキャンピーに食べさせ、ゆっくりとへと顔を向ける。
「 は?」
華奢な体躯が殊更小さく見えた。今にも震えだし泣き崩れてしまいそうな様は、まるで神の寵愛を受けし人形には見えない。唯のエクソシスト、恐怖に慄く唯の一女性にしか見えなかった。庇護欲を煽情する、クロスが愛するその女性そのもの。
「 貴方に関する注意が散漫になってしまう。その確率を少しでも減らす為、私の目の届く範囲に居なさい。」
「 ……随分な物言いじゃねぇか。」
けれどそれはすぐに霞となり消え、神の寵愛を受けし人形とも違う、いつものに戻る。気高く、強く、厳かで、そして少々抜けている処のある、愛らしいに。それに何故だか酷く安心して、クロスは表情を緩め軽口を叩く。本当は今すぐ抱きしめたいが、ぐっと堪えて。
「 現地でなら飲んでも良いから、お願いだからついて来て。」
「 …… 」
打って変わって懇願する姿が可愛くて、つい苛めたくなる。知らん顔をして煙草を吸えば、の眉尻が下げられる。
「 道中飲んでも良いわ、今ホテルに馬車とワインを用意させてるの。」
「 ほう、随分良い待遇じゃねぇか。」
それでも未だ足りないと主張するクロスは紫煙をの顔に吹き掛ける。好きな女程苛めたくなるなんて、まるで子供(ガキ)丸出しだなと自嘲するが、一度疼き出した加虐欲は止まらない。駄目押しとばかりに、言葉を続ける。
「 これで女が居りゃ―― 」
「 私が居るでしょう、つべこべ言わずに来なさい。」
物見高く笑うクロスの足の甲を思い切り踏み付け低く凄むは紫煙を切り裂いて迫る。その迫力と足に感じる痛みにただ事では無い苛立ち具合を感じ取ったクロスは目尻に涙を溜め、仰せの儘にと両手を上げた。偶には攻められるのも悪くないか、なんて考えては項垂れ深い溜め息をこっそりと吐く。前半の言葉だけをしっかりと脳味噌に焼き付ける事も忘れずに。
「 ……性格変わってねぇか?」
そう呟くクロスの声は、馬車が到着致しましたと言うドアマンの声に因って掻き消されるのであった。
荷物と共に馬車に詰め込まれたクロスはその巨体を小さくし、ティムキャンピーの羽根や尻尾を弄って時間を潰している。小さく開かれたドアからはとホテル側の事務的な遣り取りの声が聞こえ、クロスはまるで蚊帳の外状態だ。半ばいじけているクロスはティムキャンピーに向かい呟いた。
「 ……此処で逃げてもバレねぇんじゃねぇか?」
「 これ持って大人しく待ってなさい。」
ポツリともらした筈、外に居るに聞こえる訳無いと油断していたクロスは、突然開けられたドアから怒りを含んだ声音でそう吐き捨てるからワインを投げつけられ盛大にビビッていた。大好物のワインを取りこぼしそうになる程肩を跳ねさせ無言の重圧に素直に頷いた。
「 お気を付けて行ってらっしゃいませ。」
「 有り難う御座います。」
そう聞こえたかと思うとドアが開けられ、が静かに乗り込む。がしっかりと着席したのを見届けたドアマンは馬車のドアを閉め、手綱を握る運転士の男に声を掛けた。ゆっくりと動き出す馬車の中、ふぅと息を吐いては前髪を優しく払った。そこでふと、ワインボトルとティムキャンピーを握り微動だにしないクロスを視界に入れる。そしてもうひとつ、少し大きな溜め息を吐いて団服のボタンを一つ外した。
「 全く、こんな事に支部長から頂いた資金を消費するなんて……。」
相変わらずの辛辣な言葉に幾許かの安堵感を得たクロスはティムキャンピーを手放し片腕を広げた。
「 見越しての事だったんじゃねぇのか?」
「 貴方の酒代なんて含めないでしょう。」
オレはワインを要求した覚えは無ぇなと、言わぬクロスはククッと咽喉を鳴らす。言った処で言葉にせずとも常に態度で要求しているじゃないなんて言葉が返ってくるのが目に見えているからだ。或いは、それじゃそれは要らないわねとにっこり微笑まれワインを取り上げられるだろう。
「 オレ様は元帥様だぜ?」
「 大元帥にも同じ事が言えて?」
寝言は寝て言えと含まれた言葉が頭に突き刺さる。墓穴を掘ったかと頭を掻くクロスの耳に、微かに届くの声。
「 ――――所詮私達なんて、使い捨てられたら他から補給される唯の駒に過ぎないのよ。」
「 ………… 」
ガタガタと小刻みに揺れる馬車は暗い夜道を迷い無く突き進む。
ふと止まった会話に、は視線を上げクロスを双眸で捉える。
「 飲まないの?」
「 ……グラスが無い。」
「 貴方にグラスは必要無いでしょう。」
今更何を言い出すのと呆れるはついぷっと吹き出した。刹那に、車内の空気が柔らかいものになる。の言葉にむっと眉を寄せるクロスは、お前はどうすんだと言う。その言葉にああと相槌を打つと、私はこれから仕事なのよ、飲む訳無いじゃないと笑う。するとクロスの表情が更に険しくなった。
「 約束が違う。」
「 黙りなさい。」
見つめ合う事数秒、ドアへと腕を伸ばすクロスの腕を掴み微笑むはこれ以上面倒事を起こさないでと迫る。お前が約束を守ればオレも大人しくしててやるよと不遜に笑うクロスに、口篭ったは任務が無事終わればちゃんと付き合うわよと申し訳無く謝意を籠める。しゅんとした姿に少しやり過ぎたかと省みるクロスは、そりゃ楽しみだなと笑った。
(……誕生日までに終わるかしら…………嗚呼そうよ、何を贈れば………)
身体を抱きしめ壁に頭を預けるは目を閉じて考える。本来ならこんな事を考えている場合では無いのだが、本人が目の前に居ては如何しても思考が其処へと着地してしまうのだ。ガタガタと小さく揺れる車内で、眉間に皺を深く刻み考え込む。あーでもないこうでもないと堂々巡りをする情けない自分に、かなり嫌気がさす。想いを寄せる相手の好物すら的確に把握出来ないなんて。ましてや己は戦争に身を投じている分際でありながら愛だの恋だのに現を抜かしている場合かと、ずっと以前から考えていた壁に亦ぶつかってしまった。クロスに想いを募らせれば募らせる程、自分は背徳の徒と化しているのではないだろうか。いつか、イノセンスにも神にも見限られてしまうのではないか。そうなった時、自分は生きているのだろうか、生きていて、教団に居て良いのだろうか。
「 顔色が悪いぞ、停めるか?」
いつの間にかうつらうつらとしていたその頭がぼやける。そっと目を開ければ仄暗い中にクロスの心配そうな顔が見えた。一体全体、誰のせいでこんなに思い悩んでいるのか解っているのかと言いたくなるが、それが唯の八つ当たりでしかないと理解しているは目を伏せた。
「 結構よ。どうせ隙を突いて逃げ出そうと企んでいるのでしょ。」
「 馬鹿が。オレが女を置いて行くかよ。」
「 ……如何だか。」
今は優しくしないでと心の中で泣き叫ぶはその儘瞼を閉じ、心配するクロスを視界から排除した。その優しさを勘違いしてしまうから、その優しさにずっと浸っていたくなるから。その優しさが、怖い程心地良いから。
ガタガタと小刻みに揺れる馬車は、暗い夜道を迷い無く突き進む。



目的の地に着いたのはそれから一度陽が昇り、沈みかけてから。長時間同じ体勢で居た2人は馬車を降りると身体を伸ばし大きく息を吐き出した。パキパキと音を上げる身体で荷物を持つと、はワインを小脇に抱えるクロスをちらりと見やる。その腕を取ろうかどうか、悩んでいた。
「 先ずは宿の確保ね。」
「 寂れた町だな。」
「 ……お酒の期待は出来ないわね。」
行きましょうとがクロスの腕へと手を伸ばしたところで大声で名を呼ばれた。
さん!」
前方を見やれば白い衣を纏った男性が2人、此方へと駆け寄ってきている。伸ばした腕を空中で引っ込めたは会釈をする。
「 それに……クロス元帥!?」
「 なんだ、探索部隊(ファインダー)の連中が居やがんのかよ。」
チッと舌打ちするクロスをまじまじと見つめる探索部隊の2人は狐に摘まれたような表情で開口している。やはりこの人は何処へ行ってもそういう対象なのだなと苦笑するはどうもと軽く挨拶をし、早速話し始めた。
「 コムイ室長に命ぜられ来たわ。……この人は、その、おまけみたいなもの、よ。特に気にしないで。」
「 は!」
「 ……でも逃げないように見張っててくれると助かるかも……。」
「 はっ!」
乾いた風に紫煙を乗せるクロスをちらちら見ては力無く言葉を紡ぐ。それに元気良く返事をする探索部隊は2人共真剣な様子で、自分とのギャップに苦く笑った。話題に上っている当の本人は何処吹く風で、欠伸をしては眠たげな眼を擦り煙草を美味しそうに吸っている。取り敢えずこの人は置いておこうと判断したのか、探索部隊の1人が宿の手配は我々が致しますとの荷物を持ち、状況はと訊ねた。コムイ室長からさわりを聞いた程度、詳細は現地で貴方方に直接聞いてくれとの事と返すはありがとうと付け加える。
「 了解致しました。ところで夕食はお済みで……?」
その問い掛けには首を横に振り、クロスは大きな欠伸をひとつ落とした。
「 では召し上がりながらどうぞ。」
「 お荷物お預かり致します。」
「 ありがとう、宜しく。」
の荷物を持っている探索部隊がクロスの荷物を持ち、深く頭を下げてから光の中へと吸い寄せられるように消えて行った。残ったもう1人が手を伸ばし此方ですと歩き出し、2人はそれに続いた。漸く観念したのか、が腕を掴まずともクロスも追随している。ガランと明るい音を立て開けられたドアは、食欲を誘う香りを振り撒いた。

「 ……と、このように。」
食事を終えたはナイフとフォークを置き、サービエットで口を拭った。広げられた走り書きをさらうように見、サービエットをテーブルの上に置くと難しい顔色を更に深め、重々しく口を開く。
「 ……そう。傷が癒え死者が甦る森――石舞台……。」
「 はい。砕いて確かめようにも町の住人に反対され手が出せず……申し訳ありません。」
悔しげに頭を垂れる探索部隊に、ゆるゆると首を横に振り謝る事無いわと諭す。実力行使で信用を失くしても得策じゃない、それに貴方方じゃこっそり砕くのも無理だものね、と微笑み、仕方の無い事よと最後を飾った。はいと返す探索部隊の男性はぽっと頬を染め、勿体無い限りですと続けた。
「 明日の朝見に行くわ。案内を頼める?」
「 はい!」
「 それじゃあ今日はもう休みましょう。」
にこっと笑うとはグラスに残っていた水を飲み干し、同じ宿よねと訊ねる。その筈ですと返されると、グラスをテーブルにたんと置いた。
All right.宿に行くわよ。」
そう言って立ち上がると探索部隊の男性も立ったが、酒を飲んでいるクロスだけは座った儘動こうとしない。早く行きましょうと服の袖を引っ張っても振り払われ、むすっとした表情を寄越される。
「 未だ飲み足りねぇ。」
そう管を巻くクロスの言葉を予想していたのか、は溜め息を吐く事もせずクロスからグラスを取り上げると部屋飲みにしましょうと提案した。ええっと驚く探索部隊に、悪いけど酒場に行って上の方のお酒を買い占めてきてくれる?と頼んだ。当然、頼まれた探索部隊の男性は更に驚くだろう。何せは、買い占めてきてくれと平然と言い放ったのだから。買い占めですか!?と言葉を返す彼に、上の方あるだけ総てよ、これで買えるだけ買って来て頂戴と相当の金額を手に握らせた。
「 え……は……??」
「 良いからさっさと買って来い!!」
「 はっはいいっっ!!!!」
ぱちくりと眼を見開き疑問符を飛ばす探索部隊に、椅子を蹴り上げクロスは声を張る。飛び跳ねた探索部隊は放たれた矢のように店を飛び出しその姿を酒場の中へと消した。その様を口も挟めず唯眺めていたは腰に手を当て、何も脅さなくても良いでしょうと厭きれる。クククと意に介さず笑うクロスはふらつきながら立ち上がると、の髪に指を絡めた。
「 気前が良いな、どうした?」
「 別に、貴方を逃がさない為よ。唯それだけ。」
「 そうか。」
咽喉を鳴らし笑うクロスの手を払い除け、はふらつくクロスに肩を貸し店を後にする。ガランと明るい音を上げ、鼻をくすぐる香りを遮りドアは閉まる。空を見上げれば月も星も無く、ぽっかりと大きく漆黒の闇が口を開けているようで、身体を(なぶ)るように過ぎ往く風も生温く感じる。
暫くザリザリと砂を蹴っているとふとが足を止めた。如何かしたのかとクロスが顔を覗き込むと、少し待っててと告げられ肩に回した腕を退かされ、腰を支えていた手もするりと離れた。
「 なんだ。」
「 すぐ戻るわ。」
そう残すとは砂を蹴り、角に立つストリート・エンゼルの許へと行く。少々話し込んでいたかと思えば、ストリート・エンゼル達は四散し、も踵を返し戻って来た。そして先程と同じようにクロスに肩を貸し腰を支えて再び歩き出す。
「 ……何をしていた。」
足を引き摺るように歩き、クロスは口を開く。ずっと見ていたのだから大体は想像がつく。それをして何になるのだと、言わんとしている。それを汲み取れるは、同じ女性として見てられないのよと紡ぐ。はははと、笑い声が上がった。
「 だから金をやったか。だがアイツ等は明日には亦立ってるぜ?」
「 ……良いのよ。目障りなの。私の目に入らなければそれで良いの。」
「 ハン、そうかよ。」
げらげらと下品に笑うクロスに、解ってるわよと苛立ったようには返す。
「 彼女達総てを救うなんて私には出来ないもの。」
言葉を閉じた。自分のとった行動が偽善や欺瞞だと嫌な程解っているのだろう。その表情を見れば一目瞭然だ。そして哀しみを抱いているのも、顔を見ずとも解る。その言葉が、声音が総てを雄弁に物語っている。風に髪を揺らすクロスはそりゃそうだと返すと、の細い肩を強く抱きしめた。今なら酔っているからと言い訳が出来る、だからお前も強がらずオレを頼れよと籠めるのだが、その気持ちは受け入れられなかった。口を噤んだはザクザクと地を踏みしめしっかりと歩く。そして宿を見つけ出し、そのドアを強く押し開けた。中に居た別の探索部隊に驚きながらも迎え入れられ、淡々と部屋を聞き其処へ向かう。ギ、と軋む階段を数段昇ったところで下方からおずおずと呼び止められた。
「 ……あの、さん?」
ゆっくりと、半身向き直るは若干面倒臭そうに口を開いた。
「 何?石舞台なら明日の朝見に行くわ。地の利が無い分、夜半に動くメリットが見えないもの。」
「 は、はい!」
失礼致しましたと頭を下げる探索部隊は少し怯えて見えた。
「 邪魔すんなよ。」
「 貴方は口を閉じてなさい。」
不気味に笑うクロスの腰を抓り窘めるは背中を向けた儘おやすみと小さく手を振った。下方から聞こえる元気なおやすみなさいませの声を背中で受け、2階の奥の角部屋のドアを押し開ける。椅子にクロスを座らせるとマッチを擦り、灯りを燈した。しんと静かな部屋に、が歩く音だけが小さく響く。戸棚から2つグラスを取り出しテーブルに置くと、部屋の中を見渡し口を開く。
「 水と、氷も要るかしら?」
「 ま、無くても構わねぇけどな。」
「 ええ、そうね。」
荷物から水を取り出しグラスの横に並べる。椅子を引いて座ると水の入ったボトルのコルク栓を抜き、グラスに注いでぐっと飲んだ。テーブルの上に並べられた2つのグラス。部屋にベッドは一つしかないのにこれは如何いうつもりだ、明日は任務に就くからは飲まないと言っていた。なのに自分の部屋に行く素振りも見せず、酒が来るのを待っているようだ。これは単に酌をする為だけに残っているのか、それとも他意があるのか。眼鏡の奥からじっとを見つめるクロスは気が気じゃない。
「 失礼致します!!」
口を開き聞こうかとしたところでタイミング悪く、酒を買いに行かせた探索部隊が帰って来てしまった。空のグラスを見つめていたは立ち上がるとどうぞ入ってと、ドアを開け探索部隊を招き入れる。その後ろからは、酒場の従業員であろう男達が酒を抱えやって来ていた。
「 ありがとう、悪かったわね使い走りさせてしまって。」
「 いえっ、御用命が御座いましたら何時でもお申し付け下さいませ!」
深々と頭を下げる探索部隊にありがとうと微笑むとは探索部隊の部屋を聞き、明日の朝は宜しくと、今日はもうゆっくり休んで頂戴と沿え、ドアを閉めた。部屋の中に無造作に置かれた酒を見渡し、その中から幾つか取り出すとテーブルの上に並べ、これだけあれば足りるでしょ?と栓を抜いた。
「 どうだか。」
ニヤリと口角を上げるクロスは煙草に火を点け紫煙を吐き出す。
「 足りるように飲んで頂戴。それとも、もう寝てはどう?」
「 酒とイイ女を前にして寝られるか。」
「 あらあら、流石はクロス元帥殿だこと。」
クロスのグラスにワインを注ぐはくすりと笑い、ベッドを一瞥する。そのの腕を取るクロスは真剣に迫り、それともお前が添い寝してくれンのかと、目を真っ直ぐ見つめる。けれどはにこりと微笑むとワインを注いだグラスを持ち上げクロスの口元へと近付け、何も言わずクロスの申し出を断る。差し出されるグラスからは薫り高いワインの芳しい香がくゆる。が、それを受け取っては流されてしまう、そう考えるクロスも無言で見つめ返す。チクタクと針の進む音が静かに響く中、グラスをクロスの前に置きは団服のボタンをひとつふたつと外す。その行動に、クロスは思わず掴んでいた腕を放した。
「 ……誘ってんのか?」
「 っはあ?何を馬鹿な事言ってるのよ!?」
突拍子も無いクロスの言葉に素っ頓狂な声で返すはきつく睨みつける。
「 団服を脱いだだろうが。」
その言葉にああと返すは少し暑いし後はもう寝るだけだからと説明する。
「 貴方は脱がなくても良いのよ。――っ言ってるそばから服まで脱ごうとしない!!」
クロスの素肌が露になると慌てたは声を荒げ、クロスの服の前を閉めボタンを掛けた。だがその手をクロスに取られ軽々と抱きすくめられてしまう。ああこれはと顔を赤く染めるだが、きゅっと唇を噛み締め心を落ち着かせる。
「 堅い女だ。身も心もオレに委ねてみろ、楽にしてやるぜ。」
の髪を耳に掛け、現れた形の良い耳に唇を近付け囁けば小さく身を捩った。だがするりと身体を反転させるとクロスの目の前にワインを注いだグラスを差し出し涼しい顔で髪を揺らす。
「 破滅への輪舞曲(ロンド)は踊りたくないわ。ほら、グラスを持って。」
「 ……夜は長い、そう先を急ぐな。」
を抱きしめるように腕を回しグラスを持ったクロスは膝の上にを乗せた儘グラスを傾け、口角を上げる。諦めたように息を吐き出すはクロスに寄り掛かり、空いたグラスにワインを注ぎ入れた。
「 そうね。」



窓から差し込む眩しい陽の光。窓の外では小鳥達が朝日を浴び楽しげに歌っている。ピチチ、ピチチと。その歌声を目覚まし時計にするのは上半身裸でベッドに沈む赤毛の男。指先を微かに動かすと、隣に眠る女性の身体を抱き寄せ緩やかな曲線を撫でた。
「 ――ン、んん……なん………いつの間にか寝ちまったのか……………、おい、今何時だ?」
「 んー……大きな声出さないで………。」
肌を撫で上げ、鼻を撫でながらサイドボードの上に転がる眼鏡を掴んだクロスはそれを掛けると、長い髪を鬱陶しそうに掻き上げ薄い布団から上半身をノロノロと出した。ボトルを持ち羽根を動かすティムキャンピーから水を受け取るとボトルにその儘口付け咽喉を鳴らし、飲み干した空のボトルを枕に投げ捨てぼうとする頭を掻く。それから白い肌を見せ薄い布団に埋まる女性へと手を伸ばしたところで動きを止めた。
「 ん?……は?なんだお前は!?うおっ、こっちにも!?」
寝返りを打った女性の顔を見て柄にも無く叫ぶクロスは後ずさるように体重を後ろに移動させ手を付いた。と、その手に布団では無い感触が走ったので恐る恐る振り返れば、あられも無い姿で眠りこける別の女性を目にする。微睡んでいた脳が、瞬時に覚醒する。周りを旋回するように飛ぶティムキャンピーから服を受け取り急いで袖を通した。
「 お前等一体如何やって入ってきた!?」
「 やぁだ、昨夜の事、覚えてないの?」
寝ぼけた頭で抱き寄せた女性が目を擦りながら起き上がり、くすくすと妖しく笑う。その姿に、やはりそういう女かと頭の片隅で思った。
「 昨夜だ?オレはと飲んでた――――は何処だ!?」
頭を抱え、沈んだ記憶を懸命に引き揚げる。そこでふと、気付く。ベッドには女が4人居るが、肝心のが居ない。バッと振り返り部屋中を見渡すが、の姿はおろか彼女が脱いだ団服もイノセンスも見当たらない。ドクドクと早鐘を打つ心臓が嫌に五月蠅く聞こえる。全身の毛穴が開くような、早朝だと言うのにじっとりとした汗が噴き出してくる。
って、あの黒いコートの美人?」
「 そうだ。」
クロスはベッドから降りると彼女の残り香を探すように彼女の痕跡を探す。確かに昨夜は一緒に飲んでいた筈だ、この腕であのか細い手を取り肩を掻き抱いた。それともあれは、酒が見せた夢だったとでも言うのか?自分を監視する筈の彼女は何故、監視対象であるオレをその監視下から外したのか。彼女の身に何かあったに違いない。昨日の話では今朝森へ調査に行く予定ではあるが、まさかこんな早い時間から出る筈も無かろう。
「 その美人さんなら、昨夜遅くに出て行ったわよ。」
「 ……昨夜、だと?」
悪い方へ悪い方へと行く思考を振り払い、クロスはベッドに寝転ぶ女を見る。
「 ええ。昨日、アンタ達がレストランから出てきた時、その美人さんに金を渡されて言われたの。
 今夜3時にこの宿に来るように、ってね。」
「 女の相手はしてないって断ったらアンタの相手をして欲しいって。アンタ達、恋人じゃなかったんだね?」
ペアルック着てるくせにと笑う女は起き上がり、煙草に火を点けた。
彼女達の言葉を頭の中で整理し、記憶と符合させる。昨夜、宿に戻る途中ではストリート・エンゼルに金を握らせていた。それは事実だ。だがは目障りだから蹴散らしたのだと言っていた。その顔は苦々しく、この世に絶望していた。だのに彼女達はに依頼され此処に来たと言う。ではその依頼はいつしたのか?そんなもの、もう答えは目の前に置かれている。
「 あの時――クソッ、だからか!!」
酒瓶が転がるテーブルを叩きつけ窓の外を睨みつけると、クロスは大股でドアへと歩く。だが女がベッドから飛び降り、その行く手を阻んだ。
「 ちょっと、どこ行くのさ?」
「 オレの勝手だろ。退いてくれ。」
下着姿の女の肩を手の甲で払い足を前に出すと背中に鈍い衝撃を感じる。ちらりと肩越しに見れば、別の女が抱きついていた。その間にも、煙草を咥える女と寝惚けた頭で抱き寄せた女がドアの前に立ちはだかる。
「 私達はあの美人さんに雇われてんだよ。その相応分の仕事はするよ。」
「 アタシラにもプライドってもんがあってね。」
「 オレにも一応あるもんでな。」
静かにそう告げるクロスは眼で退けろと訴える。その眼力に少し怯える女達だが、ドアの前を動こうとしない。腰に抱きついている女を引き離すとクロスは煙草に火を点けゆっくりと紫煙を吐き出す。ごくりと、唾を飲み込む女が口を開いた。
「 私達4人じゃ不足かい?確かにあの美人さんには容姿じゃ勝てない……。」
「 けど、ベッドの上じゃどうかな?」
冷や汗を流しながらもニヤリと笑う女はふうと紫煙を吐き出す。くっと咽喉を鳴らすとクロスは肺いっぱいに煙を吸い込み、緩く口角を上げた。
「 嬉しい言葉だ。」
その後に続く言葉など解りきっている。目の前に居る不敵に笑う男と昨夜の黒いコートを着た美人、その2人が恋人関係ではなくとも互いに大切に想い合っている事など、2人の行動を見れば手に取るように解る。昨夜の美人が何の為に自分達を此処へ呼んだのか、そしてこの男がこれから何をしに行くのか。自分が、何をすべきなのか、総て解っている。
「 だったらそこに寝てな。」
「 普段なら大の字になるところだがな。」
本当は今もそうしたいと笑い、クロスは一歩足を踏み出す。
「 じゃあっ!」
「 悪ぃな。」
もう一歩足を踏み出せば、煙草を手に持つ女ともう1人の顔が怯んだ。だがどうしてか、寝惚けた頭で抱き寄せた女だけは表情を変えず後ずさる事も無い。寧ろ腹を括ったように見え、それが何故か今此処には居ない女と重なって見える。審美眼まで備わっているとは、ますます以って完璧な女だなと自嘲の念が沸き起こる。
「 ……それは私達が娼婦だからかい?」
「 フン、女には変わり無いだろう。」
「 なら何故だい、何が気に喰わないんだ!?」
昨夜黒いコートを着た美人から聞いた話じゃ、この男は仕事よりも酒と女に現を抜かしているとか。だからこそ彼女は私達を呼んだんだ。私じゃアイツの面倒を見られないからと。アイツは私なんかを見ないんだと。なのにこの男は、その女しか眼に入ってないじゃないか。酒も他の女も何一つとしてこの男を縛れない、微塵も気を紛らわす事すら出来ていない。誰よりも何よりもアンタの事しか考えていないじゃないか。どうして互いに、大切な相手の気持ちに気付かないんだ。
「 女に女の世話をされる程、オレは落ちぶれちゃいないんでね。……オレの団服(コート)は何処だ?」
きっと彼女の許へ駆けつけるんだろう。彼女が何をしているか知っているから。そして彼女はこの男を巻き込みたくなかったんだ。自分が危険な目に合うと知っていたから。互いに想い合うからこそ、気持ちがいき違っているんだ。だから、どうする事が正しいかなんて、私には判らないよ。どっちにしても必ずどっちかの気持ちが壊されてしまうんだから。
「 解ったよ。……けどアタシラもプロだ、貰った金の分は働くよ。」
「 ……?」
隣に居る煙草を手に持つ女に目配せすると。彼女も腹を据えたように深呼吸した。どれが正しくてどれが正解かなんて知る由も無い。だったら目の前に居る男のように、自分の心に素直になるまでだ。自分自身がどうしたいか。例えそれで誰かが深く傷ついたとしても致仕方無い。
「 あの美人さんに頼まれたんだよ。」
命を懸ける義務なんて無い。義立てする謂れも無い。金だけ持ってさっさと帰ってしまえば良い、面倒事なんてゴメンだ。
「 3時にこの宿に来てアンタの相手をする、あの美人さんが戻って来るまでアンタを一歩も部屋の外に出すなってね。」
くすっと声をもらし笑う女はドアに鍵を掛けるとドアノブを叩き壊した。
「 ……やってくれるじゃねぇか。」
だけど何故か、2人を見ていると心が疼いた。遠い昔にどこかに置き忘れてきた何かが、再び手の届く距離に戻って来たようで、目頭が熱くなる。まるで懐かしい景色を見ているようだ。
「 女には乱暴な事、しないんだろ?」
「 ああ、出来ねぇな。」
あの頃の自分を取り戻せるような気になってしまったのは、アンタ達のせいだよ。
「 じゃあここで大人しくアンタのご主人様の帰りを待つんだね。」

「 ……迂闊……」
「 貴女程の上物がかかるとは思いもしませんでしタv」
太陽の光すら遮る森の奥深く。粉砕された石舞台の瓦礫を鮮血が彩っていた。肩で息をするはイノセンスを握る腕を支え、辛うじて立っている状態だ。対峙しているのは一介のエクソシストが単独でどうにか出来る相手ではない。命という命が裸足で逃げ惑う存在、存在する事を許されぬ存在、禍々しきオーラを放つ者。
「 死者が甦る――なんて、貴公の所業だとは解っていたけれどまさか未だ居たとは……」
「 我輩は何時でも何処へでも、悲劇の許へと飛んで行くのDeath v」
「 仕事熱心ね。」
「 えエv」
「 何処かの誰かさんにも見習わせたいものだわ。」
ゴホと嫌な咳をするは口を閉じ、プッと血の塊を吐き出した。似つかわしくない行為deathネvと笑う伯爵に、誰かさんの粗暴が感染したのかもねと口元を手の甲で拭う。
「 フフvさて、名残惜しいのですが楽しいお喋りはここまでにしましょうカv」
「 ……そうね。」
ズルリと大剣を引き抜く伯爵に、はイノセンスを持ち直し構える。パリパリと不安定に煌くイノセンスは、それだけとのシンクロ率が下がっている事を表している。もってあと一・二回だろうと霞む視界で伯爵を捉えるは深く息を吸い込み覚悟を決める。折角見つけた新しいイノセンスも、適合者と巡り会う前に破壊されてしまうなんて皮肉なものねと、何故だか口元が緩んだ。それは自分のような兵士を一人作らずに済んだと思うからだろうか。
「 貴女のイノセンス、頂きまスv」
その体躯で何処からそんなスピードが出るのか、敵ながら見事だとふらつく頭の片隅で嘆賞するは伯爵の初撃を自身のイノセンスで受け止める。けれど力の差は歴然で、弾き飛ばされたかと思った瞬間に横下方からの衝撃波が微かに見えた。
「 ――ぐっ……!!」
辛うじて反応出来たものの、今やイノセンスからは弱々しい光しか放たれていない。少しでも衝撃を加えれば瓦解するだろう。の血飛沫に彩られた森に、2人以外の生体反応は見受けられず、その内の一方もほぼ消え掛けている。木の根に乱暴に寝そべるの前に伯爵がちょこんとしゃがみ込んだ。
「 なかなかしぶといデスネvエクソシストにしておくのは勿体無いデスv」
「 ……そりゃ…………、どうも…… 」
力の入らぬ手に乗っているイノセンス。懐に入っている新しいイノセンス。どちらも守る事が出来ない。それだけが悔しい。イノセンス回収と保護、何よりも優先すべき任務なのに。今までだってそうしてきたのに……それも今日は守れない。任務終了出来ない。神の御心に応えられない。それだけが悔しい、許せない。熱い身体が血を流すように涙が一雫頬を伝った。白い肌に流れる鮮血が髪を汚し団服を汚し、イノセンスをも染めている。開いているだけの双眸には最早伯爵のぼやけた暗い影だけが映っている。
「 どうです、我輩と共に―― 」
「 おいおい、他人様の女に手ェ出してんじゃねぇよクソデブ。」
鋭い眼光がのイノセンスを捉え大剣を肩に乗せたその刹那、背後からの弾丸を叩き切った伯爵は大きく跳んだ。乾いた風に赤い髪を揺らし煙草を咥えながら右手に銃をぶら下げた男が木の間から現れる。
「 この声ハ……v」
から離れた伯爵は着地すると、破れた服を悲しげに見つめる。
紫煙を風に遊ばせるクロスはの許へ来ると膝を付き彼女を抱き起こした。その煙草の匂いが、微かに生きているの鼻をくすぐる。
「 ……っ貴方………何し、ここへ………… 」
「 コートが無ぇから寒ぃんだよ、ガタガタ騒ぐな。」
血塗れのを見つめるクロスは奥歯を噛み、隻眼に強い光を宿す。そして自身の手と服に付いた血に舌を鳴らした。
「 クロス・マリアン……v」
「 野郎に呼ばれても虫唾が走るだけだ、失せろ。」
「 そうはいきませンv」
半身を伯爵に向け断罪者(ジャッジメント)を構えるクロスに四方八方からの閃光と衝撃波が襲う。それを総て打ち落とすと煙の中から鈍く光る大剣と鋭い眼光が現れた。
「 仲良く虚空の神の許へ送って差し上げますヨvv」
「 ――――っあぁぁあああ゛あ゛あ゛あああ゛あ゛っっ!!」
!?」
目の前に迫る大剣の進路が反れると生温い紅い風が吹き抜けた。
「 ……フフフ、仕留め損ないましたカvまァ良いでしょウ、今日はそちらのご婦人だけでモvvv」
頬や髪に掛かった血を拭う暇も無く、一際大きく煌いたイノセンスを握りしめ倒れこむを抱き留める。見れば白磁の肌は蒼白に変わり紅い釉薬(うわぐすり)を塗りたくられている。団服は上下に大きく裂け、鉄の臭いを辺りに充満させる。
「 テンメェ……!」
歯噛みするクロスは断罪者の引き金を何度も引いた。
「 今日は退きまスv亦逢いましょウ、クロス・マリアンv」
「 逃がすかクソデブッ!!」
大きくジャンプした伯爵はお辞儀をすると霞のように消え、ターゲットをロストした弾丸は重力に逆らわず土に着地する。ざわりと温い風が吹く森の中、クロスの咆哮だけが強く響いた。
「 ぐ、はっ!ゲホッ……」
!しっかりしろ!!」
血の飛沫を吐き出したを両腕で支え、口元を指先で拭うとクロスはを横抱きし立ち上がる。その儘柄にも無く低い木を踏み付け森の中を走り出した。バキバキと乾いた音を上げる踏まれた枝はクロスの足を傷つけるがその足は決して立ち止まらない。風に逆らい疾走する。あふれ出る血にイノセンスも紅く染めるは薄っすらと開かれた目を細め、紅い飛沫を吐き出す。
「 ……ふふ………貴方が取り乱すなんて……らしくない、わね………… 」
「 喋るな、黙ってろ!」
「 ………これも、貴方を逃がす……まいと………団服を隠した私……自業自得ね………… 」
「 お前は悪くないっ!」
「 …………クロス、元帥殿………… 」
「 っ!?」
蚊の飛ぶような細い声を絞り出すは震える右手でクロスの頬に触れ、光を宿さない瞳を閉じ小さく微笑んだ。
「 これと……っ私のイノセンス………よろしく頼んだわよ………… 」
ッ!」

この先守ってあげられない私のイノセンスも、貴方の手の内にあるなら安心だわ。私はもう貴方の隣で闘えないけれど、いつか私の持っていたイノセンスが貴方の隣で再び煌きますように……。最期に貴方を守れて良かったわ。素直じゃない女に涙なんて似合わないのよ、だから万が一にも貴方が泣くなんて事、無いわよね?




白い部屋。
窓には白いレースのカーテンが踊っている。狭い部屋の一郭をパタパタと旋回するティムキャンピー。

(……!……ここは…………ティムキャンピー……?)
薄く開いた目に映る金色の影。その輪郭が徐々にはっきりしてきた頃、の指先が小さく動いた。鼻を刺激する消毒液の臭いが充満する部屋で、自分が置かれた状況を頭の彼方で把握するとゆっくり目を閉じた。
「 起きたか。」
聞き慣れた声に思わず身体が反応して目を開くと、鮮やかな赤毛がらしくなく嗤っていた。
「 !………そう、殺し損なったのね……。」
「 ああ、ザマーみろってんだあのクソメタボ腹が。」
嗚呼、私は生きているのね。そう確信すると内からふつふつと沸き起こる喜び。亦あの子(イノセンス)と共に闘える、亦あの子をこの手に握りしめられる。神の御心に応える事が出来る。そう思うとの口元が緩められ、土気色の顔が明るく見える。
「 ……どれくらい、眠ってた……?」
覗き込むクロスが泣き出しそうになっているのに気付かぬは小さく口を動かし、視線を横へと滑らせクロスに座るよう促した。腰を下ろしたクロスはふっと表情を緩め、それからいつもの不遜なそれへと変える。心配なんかしていないとフンと鼻を鳴らし。
「 今日は31日だ。一人で突っ走るからだろ。」
「 あそこまで誰が予想出来るって言うのよ……え?31日?嘘でしょイタアッ!!?」
「 ッバカ、無理に起き上がるな!」
疲れたと言わんばかりにそっと目を閉じたは刹那に目を見開きクロスを凝視した。それから寝過ごしたサラリーマンがベッドから飛び起きるように上体をガバッと起こしたが走り抜ける激痛に端整な顔を歪ませ動きを止める。腕組みして椅子に座っていたクロスは慌てて立ち上がりの両肩を支えると、子供を叱責するように大きく口を開く。くぅと呻くに折角閉じた傷口が開くだろと諭し、枕を立てかけそっとの上体を枕に沈めた。堰を切ったように生まれいずる激痛に顔を歪ませた儘、はクロスの腕を縋るように掴む。
「 だ、だって、31日って!本当に31日!?7月の!?」
「 ああ、そうだ。」
珍しく慌てたように早口で捲くし立てるを不思議そうに見つめるクロスは医者を呼ぶべきかと考える。どうせ亦、任務が如何こう言い出すに決まってる、そんな事より自分の身体を気に掛けろと心の中で舌を鳴らしているとが窓へと視線を移した。
「 !?……もうすぐ終わる?じゃない………こんな所で、何をしているのよ……。」
「 はあ?見りゃ解ンだろ、お前のお傅だよ。」
脈絡の無い事を言い出すに頭に後遺症でも出たかと心配するクロスだが、俯き大人しくなったはお酒も何も飲まないでと落ち込んだように暗いトーンで続ける。今日は何か特別な日だったかと頭を捻るクロスは院内禁酒禁煙だからなと当然の事を説明するように話す。確かに酒は好きだが、惚れた女が生死の境を彷徨っている時にまで飲みたいと思う程薄情じゃねぇんだけどなと自嘲する。
「 ………逃げないの……?」
「 男なら放置だ。」
ポツリともらされた言葉を拾い上げ、クロスはクッと咽喉を鳴らした。こんな時にまで何を心配してるんだ、と。だが様子の可笑しさにも気付く。俯いた儘のは、指先に入らぬ力を小さく籠めた。
「 …………悪かった、わ……。」
「 ああ゛ん?」
「 散々な誕生日にして。いつもなら綺麗な女性を侍らせて良いお酒を飲んで過ごしていたのでしょう?」
その言葉に、息を呑む。
今年はそのどちらも、何も無い儘過ごさせてしまったものねと続けるは其処まで言うと一度言葉を閉じ、握っていたクロスの団服を指先から解放して顔を上げた。その表情が、劣情に火を点ける事を本人は知らない。申し訳無い色を湛えたは複雑にわらう。
「 今からでも……少しくらいは満喫出来るんじゃなくて?」
「 もうしたさ。」
クロスは息を吐き優しく笑み、一度目を閉じる。その言葉は、その表情は、オレを想っていると露呈しているようだと、勘違いしてしまうだろうがと微笑む。ずっと願っていた事が、ずっと期待していたものが目の前にあるようで、喜びが内から内からあふれ出てくる。目を開けたクロスは厭らしく口角を上げるとの頬に指を滑らせ、顎に掛けた。
「 今日一日――否、3日間も無防備な寝顔を堪能出来たんだからな。なかなか可愛かったぞ?」
「 なっ馬鹿!ヘンタ――っっ!!」
その手を払い除け大声を出したは腹を押さえ紅く染まった顔を痛みに歪めた。そのリアクションがクロスの愉悦と加虐変態性欲を呼び起こすだけだと知り得ぬは痛みに涙を湛える。細められた双眸の涙をクロスは指で掬い、邪悪な笑顔とオーラを発動させる。はその姿を目にすると、痛みとは別に冷や汗が噴き出す感覚に陥る。
「 無理するな、ゆっくり養生すれば良い。」
「 な、なに言ってるのよ……。」
ベッドの中で思わず後ずさるが、様々な管に繋がれたに自由は無い。
「 オレが手取り足取りナニ取り看護してやろう。光栄だろ?」
「 っ近寄らないで!っっその手に持っている物は何よ!?」
「 回復を早める媚薬だ。」
「 口が滑ってるわよ変態!!」
Could you just smile for me?