「 リナリー!」 初めは、好奇心からだった。 「 なに?」 「 あの人、誰?」 「 どの人?」 でも少しずつ知るたびに、もっと知りたいと思うようになった。 「 あの人、あの髪の長い東洋の……?」 「 ああ、神田の事ね。そう、神田は日本人よ。」 そして、恋に落ちた。 「 カンダ?日本人?」 「 ええ、名前は神田ユウ。」 「 神田ユウ……ユウちゃんか。仲良くなれるかな?」 「 なら大丈夫よ、すぐうちとけられるわ。……でも、」 「 でも?」 「 神田は男の子なの。」 「 おとこのこ!?」 そして私は何度でも貴方に恋をする 「 ユウー。」 「 うるせえ!その名で呼ぶなと何度云えば解るんだよお前は!!」 「 ユウこそ好い加減私の名前覚えなさいよね。」 「 はっ、俺は無駄な事はしない主義でな。」 どういう意味よそれはと息巻くだが、気にする素振りも見せず神田は歩き出す。 歩くたびにサラサラと揺れる長い髪を見つめ、は一歩遅れて歩き出した。神田の歩くリズムに合わせ揺れる髪をツンと引っ張っては、一人えへへと笑う。 「 任務か?」 「 うん。そっちは?」 「 左に同じ。」 同じような出で立ち、同じように互いのイノセンスを腰に下げている二人。その向かう先も同じで、珍しく神田から口を開いた。私はブルゴーニュで任務、ユウはと訊ねるにローマだと律儀に答え階段を下りる。飽きたのか、神田の髪を弄るのを止めたは階段を一段飛ばしで下り、神田よりも先に船着場へと降り立った。鼻を鳴らす神田はそれでも気にする素振りも無く、マイペースに下りている。 暗い水路の船着場は水音が響き、鬱蒼として少し肌寒い。 「 ねぇユウ。」 「 だからその呼び方は止めろっつってんだろ。」 名を呼ばれ悪態をつく。いつもしている事だ不思議は無い。なのにその後に続く筈のの言葉が無いものだから、船に乗るのを止め隣に立つ少女を見る。少女は斜め下を見つめていたがふいに顔を上げ、好い加減名前で呼びなさいよねと笑った。 「 黙れ。」 「 ユウはつれないなぁ。」 「 出してくれ。」 「 ちょっと、私未だ乗ってないし!」 そそくさと船に乗り込んだ神田は腰を下ろすや否や船頭にこう告げた。慌てて乗り込もうとするを見て、船頭が微笑んだのを見逃さなかった神田は小さく舌を鳴らし、それを聞いたに五月蠅く騒がれるのだった。 任務後に別の任務を告げられ――なんて事を繰り返していると、神田が教団に戻って来たのは実に一月も後の事だった。コムイに報告を済ませ、次の任務まで時間が出来そうなので取り敢えずと部屋へ帰る。荷を解き六幻をベッドへと置き一息つく。見慣れた自室に訳も無く安堵している自分に気付き、そしてそういえばと、思いついては舌を鳴らす。 「 なんで俺があんな奴の心配なんか……。」 乱暴にドアが閉められ水が揺れた。 団服を脱いだ神田は替わりにセーターを羽織り食堂へと向かう。歩くたびに揺れる長い髪。男のくせにサラツヤストレートだなんてずるいと理不尽に怒鳴られた事もあったなと、顔を伏せる神田の口角はゆるく上がっている。 迷路のような教団の一角を曲がる。その先に人影が動いたのを見た。ふと息を吐く。更に口角が上がっているのに気付き神田はひとつ舌を鳴らし冗談じゃないと心の中で毒づく。そして動く人影目掛け、口を開く。 「 未だ生きてたのか、悪運の強い女だな。」 そう云って同じペースで歩く。段々と近付く人影は同じエクソシストの。自分と同じように幾つか任務をこなしたのだろうと推測されるその様相に自分なりの挨拶を投げかける。の顔が、神田へと向けられた。 うるさい馬神田!好い加減名前で呼びなさいよねと勢い良く詰め寄られるのかと思えば空振りで、はすぐに顔を元の向きへとやった。 面白くない、そう思うのに時間は掛からない。 「 無視してんじゃねぇよ。」 少し歩を速め隣へと並ぶ。怒気を籠め凄めば肩が跳ねた。エクソシストのくせになっちゃいねぇと思う。 見下ろせば、ちらりと見上げられる双眸は何故か怯えた色を覗かせている。そしてすぐに、視線は外された。 「 おい。」 「 ひゃあっ!!?えっ、あの……な、なんですか……?」 今にも泣き出さんばかりの表情に、震えるか細い声。 何のリアクションも示さないに業を煮やしたのか、面白くないと云った顔で肩に手を掛け振り向かせれば先の反応。何の冗談だと少し間を置いて返せば、あのそのとはっきりしない怯えた姿が寄越される。それは短気な彼の激情を刺激するには充分過ぎて、肩に掛ける手に必要以上に力が籠められる。幾ら暇だからとは云え、こんなくだらない茶番に付き合わされるのはごめんだと、その仏頂面が物語っている。 「 すっすみません、その、私、何か貴女に不愉快な思いをさせてしまったのでしょうか……?」 それでもは頑なに、怯えたふりをして涙を湛えた瞳で見上げてくるものだから。 「 気色悪ぃ真似はやめろ。」 肩に置いた手に更に力を籠め壁へと追いやった。 いつもと違うリアクションに戸惑う自分にも苛立ち、腹の底が煮えたぎるようだ。こんな奴、眼中に無かった筈。なのにどうしてこんなに固執しているのか。自問自答していると、すみません痛いですすみませんと鼻声が耳に届く。 「 おい――」 「 神田?何やってんだ?」 「 ……リーっこの、待ちやがれっ!!」 詰め寄ったところでリーバーに声を掛けられ注意が其方に向かったところで逃げられてしまった。後を追おうかとも考えたが、刹那にどうして俺がと冷静に突っ込む自分に気付く。折角の休暇だというのにとんだ悪い冗談だ、次に会ったらぶっとばしてやろうと誓い、リーバーに何でも無いと告げ再び食堂へと足を向けた。 「 おい。」 それから幾度か、幾度もと出くわした。 広い教団とは云えエクソシストである二人の行動範囲は云わずもがな、被る。談話室や療養所、風呂場や修錬場という場所で普段以上に二人は接触していた。 しかし神田がに声を掛けると 「 きゃああっっ!」 と、まるで熊にでも遭ったかの反応を見せ、脱兎の如く逃げるのだった。 きゃあなんてキャラに合ってないんだよと思いながらも腹の底で燻る感情。面白くも無い茶番をいつまで続けるのか、好い加減苛苛が爆発しそうだ。こんなくだらない事でストレスを感じるのは可笑しい、何かの間違いだろうと神田は唇をかみ締め目を閉じる。 翌朝、神田は任務を命ぜられ教団を発った。 食堂でリナリーと食事をしていたは、廊下を足早に歩く神田の姿を見つけ思わず身を潜めた。突然の行動に目を丸くするリナリーがどうしたのと訊ねると口元に指をあてしぃと声を落とすよう目配せする。ゆっくりテーブルの下から頭を出し、キョロキョロと周りを念入りに確認してから椅子に座りなおし、ワッフルの残りを急いで口へと運ぶ。 「 、どうしたの?そんなに急いで食べなくても誰も取ったりしないわよ?」 アレン君も居ないものと続けるリナリーをチラリと見るは大きく口を動かし咽喉をごくんと鳴らす。未だ湯気の昇るティーカップへと手を伸ばすと冷ます事もせず一気に飲んだ。しかし、やはり熱かったのかソーサーへカップを置いたの目には涙が溜まっている。慌てて飲むからよ、お水貰ってこようかと苦笑するリナリーを制し、声を落としたは涙を湛えた顔を歪ませた。 「 昨日変な人に遭ったの。訳の解らない事云って、私を脅すのよ!」 見てよほら、強く掴まれ過ぎて少し痣が残ってるのと肩を出すに慌てて肩を隠すように云い、リナリーは場所を変えましょうと席を立った。 の部屋に入り、涙ぐむを落ち着かせ話を聞くリナリー。 一通り聞き終えた後でひとつ溜め息を吐き、確かめるようにの目を見つめ、訊ねる。 「 つまり、それは神田の事でしょ?」 「 カン、ダ?」 何の冗談よと肩を竦めるも、の反応は意外なもので、何時までそんな事を云うのと窘めた。 「 そんな事って、リナリー!」 「 を脅したのは、長い黒髪の東洋人、よね?」 「 うん、モデルさんみたいに綺麗な顔で、でも眉間に皺があって、艶やかな黒髪の……」 「 だから、神田でしょ?」 「 カンダって云うのあの人?すっごく怖かったんだから、泣きそうになった!」 「 ……あのね、何時までそのお芝居続けるの?神田が可哀想よ。」 「 お芝居って何?私は本当に怖い思いしたのにリナリーは解ってくれないの!?」 「 もう、。」 「 あのカンダって人、誰?新しいエクソシスト?リナリーはあの人の事知ってるの?詳しいの?」 呆れながら聞いていたリナリーだったが、あまりにもの剣幕が凄まじいので一瞬気圧されてしまった。何を云ってるの、神田じゃないと云えども返ってくるのはカンダって誰?何人?どういう人?といった疑問符ばかり。 その必死さに違和感を覚えたリナリーはそっとの手を取り眼を見つめる。けれど見つめる先の眼は泳ぐ事は無く、不安げに小さく揺れている。 どうしてと思う反面、まさかとも思う。 「 ……、一度、兄さんの所へ行きましょう。」 手放さぬよう、ぎゅっと手を握りしめリナリーはの黒い瞳を見つめる。 どうかそうでありませんようにと、悲鳴に似た祈りを心の中で上げながら室長室へと急いだ。 イノセンスを保護しても。アクマを破壊しても。 脳裏にちらついて離れないのは他の誰でもなくあいつで。今までそんな事有り得なかったから殊更気が立って。どうしてこんなにも気になるのか、苛苛しながらも自問自答してみれば答えは意外にも呆気なく導き出されてしまって。 教団に帰って一発ぶん殴ってやれば気も晴れると、懐にイノセンスを突っ込みながら空を見上げる昼下がり。 空は腹が立つ程に綺麗に澄み渡っている。 それから程なくして、予定通り教団に帰還した。 「 ユウー、ユウー。」 そう自分を呼ぶ声が聞こえないから、あいつは任務に出てるのか。ぶん殴ってやろうと思ったのに、間の悪い奴だ。 と、仏頂面を下げ室長室へと歩く神田。暗い廊下の一角を曲がる前に、その先に人が居る事に気付く。声を落とした男が二人話しているようだ。興味が無い、能くある事だと気にも留めず足を出そうとしてその足を止めた。 がと、聞こえたからだ。 「 リーバーくん、どうだった?」 「 ええ、やはり記憶障害のようっスね。」 声を聞くに、コムイとリーバーのようだ。 どうしてか、止めた足が前に出ない。息が詰まるような、胸が早鐘を打つような感覚に襲われる。 そんな神田を他所に、二人の会話は粛々と進められる。 「 全然覚えてないんだよね?」 「 はい、コムイ室長の診た通りです。の中の神田に関する記憶だけが綺麗さっぱり抜け落ちてます。」 六幻を取りこぼしそうになった。二人の会話内容が飲み込めないのは任務帰りだからか。一体何について話しているのか、皆目見当がつかない。 「 他の事は?例えばエクソシストとかアクマの事とか……。」 「 それが不思議な事に、神田に関する事象のみ覚えていないようなんです。 自分が何者でどんな事をしているかとか、此処が何処かだとかはしっかり覚えていて…… と云うか、俺らからしてみても、室長から見てもに違和感は抱きませんよね?」 「 確かに、ちゃんはちゃんなんだよね。そのまま変わり無い彼女だ。」 「 ええ。任務にも支障ありませんし。そもそも何時から神田の事を覚えていないのか、俺らはそれも知りません。」 「 ……そうだね。」 教団内部の者の話を聞く限り、と神田がそれまで通りの遣り取りをした最後は二月程前。がブルゴーニュに行く直前です。それ以降の二人の接触はリナリーの話す通り、が一方的に怯えているようです。何度か会ったようで、でもその度に怯えているようでしたので其処も詳しく調べてみましたと続けるリーバーの声に思わず身体が動いていた。じっと身を潜め会話を聞いていた神田は二人の前に音も無く現れる。 「 っ神田!?」 「 神田くん?あれ、何時から其処に居たの?」 「 ………けろ……」 驚くリーバーにおどけるコムイ。 自分自身どうしたいのかなんて解っていない。けれど考えるより先に身体が動いていた。 思い返してみれば二人の会話内容に頷けるポイントは幾つもある。二人の云う記憶障害――もし本当に彼女がそうであるなら彼女の不可解な反応も総て理解出来る。けれどそれは彼女の行動の理由であって、彼女がそうなった原因の理解では無い。 って云うか何時帰ってきたのと冷や汗を掻くコムイの胸倉を鷲掴んだ神田は其の儘コムイを壁へと押し付けた。 「 神田!!」 「 どういう事だコムイ!解るように説明しろ!!」 「 落ち着け神田!!」 「 何時から知ってたんだリーバー!どうして俺に知らせなかった!!」 身体を揺すられ、コムイの帽子が床へと落ちた。 「 答えろよ!!」 「 …………場所を変えようか。」 コムイの声が暗い教団の廊下に小さく響く。 火の無い部屋。 遠くで人の話す声が聞こえる神田の部屋は、主が居ないかのように暗く静かだ。 けれど神田は任務には出ておらず、灯りも点けずにベッドの淵に腰掛けていた。 じっと見つめるでも睨むでもなく、けれど彷徨う事も無い視線は遠く窓の外を捉えている。外は何時しか太陽の姿を隠し、朧な下弦の月が不安定に煌いている。 つい先程、部屋に戻って来た神田。それまでずっと、コムイとリーバーの三人で司令室に篭っていた。 そこで告げられた、真実。 何度云っても、何度叫んでもユウユウと悪戯に名を呼ぶムカツク奴。 際どい闘い方をする危なっかしい奴。 それでも何時も、笑いかけついてくる奴。 そいつが俺の総てを忘れた。 俺の記憶を失った。 俺を、俺と認識しなくなった。 「 ……なんでだよ………」 磨り潰すようにもれた呟き。 「 なんでだよ……」 空にとける言葉は誰に向けられたものなのか。膝に置く掌をきつく、結ぶ。 「 ……俺は未だ……名前…………」 拳を振り上げベッドに沈めた。 コムイとリーバーから聞かされた現実。未だ総てが解った訳では無いけれど、かき集めた情報から導き出された答え。 それはアクマによる内部破壊。 本人の証言によりアクマの体内に取り込まれていた事が解ったそうだ。そのアクマの体の中と外とでは流れる時間の速さが異なり、外――つまり人々が暮らしている時間の一秒が、アクマの体内では一時間にもなるという。そのアクマの体内に長時間取り込まれていた事による副作用で記憶に障害が出たのではないかというのが科学班の見解だ。しかしそれが何故神田だけなのか。そしてどうやってアクマの体内から脱出したのか。それらの謎は未だ解っていない。 「 ……俺は一生、もうお前の名を呼べないのかよ………………………」 奥歯を軋ませ、シーツを握りしめる。 淡い光を落とす下弦の月が空高く、不安定に煌いている。 そういえばと、帰還してから何も腹に入れていない事を思い出した神田は仄暗い廊下を歩く。 長い髪を下ろし、カーディガンを羽織る線の細い後ろ姿は一見すると女性に見える。灯りの少ない事も手伝っているだろうか、尚且つ中性的な顔立ちをしている神田だ、すれ違う人々が美人だと云った後に息を飲み込むのも致し方無い事だろう。 食欲は無い、けれど食べられる時に食べておくべきだと心得ている。口に運び腹へと落とす事位訳無い、能面のような表情で食堂へ向かう道すがら、談話室の前に差し掛かりふと足を止めた。 声が聞こえたのだ。 息を殺し室内をそっと覗く。其処には暖炉の近くに座るとリナリーの姿があった。 視界が歪む。 手を伸ばせばすぐに届く距離に居る人間の、記憶に自分だけが居ない。楽しげに微笑み、手足を動かし、紅茶を飲むその姿は以前となんら変わり無い。 けれどその彼女の内に、自分だけが入っていない。 足を止めていると、リナリーと目が合った。リナリーはまずいといった顔で眉を顰めたものだから、その異変にが気付くのは当然の流れで。なんら変わり無い表情のが神田へと向く。そしてリナリーへと口を開き、ちらちらと此方を見る。無意識下で舌を鳴らした神田はその音で我に返り、長い髪を揺らし談話室から離れる。 腹が疼く。居心地が悪い。誰のせいでも無い否、あいつが悪いんだ。ひとの事を忘れておきながら何食わぬ顔して笑うあいつが無性に癪に触る。罪の意識に苛まれる事も無く暢気に笑ってんじゃねぇよと口の中で殺したところで、どうして俺がそんな事を気に留めているのだと盛大に舌を鳴らし壁を拳で殴りつける。 「 カンダ、さん?」 寸前で背後から声を掛けられ、僅かに肩が跳ねた。 同じ声で、同じ調子で。その声は恐怖に怯える事も、怒りに打ち震える事も無く。 なんだよ、と。何か用か、と云おうかと口を開き、何も発せず静かに揃えられる唇は真一文字にきつく結ばれている。 壁に手を付く事無く宙に浮いた腕をゆっくり下ろし、神田は足を前へと出す。に声を掛けも、振り返りもせず。 「 あ、あのっ、カンダさん!」 二歩進んだところで再び声を掛けられる。自然と刻まれる眉間の皺。 それでも無視して進むと、待ってくださいとカーディガンの裾を引っ張られ、反射的に振り返りその手を払った。視界の中心に捉えたは肩を大きく跳ねさせ身構える。そしてこぼれる、すみませんとどもる声。 亦、やってしまったと駆られる嫌悪感。 睨んでいる訳では無いがその鋭い視線を外し、一歩退り踵を返せば、再び引っ張られる。 けれど今度は、服の裾では無い。 「 あの、カンダさん、ですよね?突然すみませんでも少し待って欲しくて……。」 そう云って視線を忙しく動かすへと神田は振り返る。 振り払うべきだ、此処に居るべきでは無いと頭では解っていても身体が動かない。身動ぎ一つ取れやしない。 「 今、私リナリーと……あ、私、と云います。です、初めまして。それでその、今リナリーとお茶してて。 その、良ければご一緒に、どうかなと、思いまして……。」 そう伝えるの頬は少し紅潮している。 鮮やかに蘇る記憶―― 初めてと言葉を交わした時も確かこんなシチュエーションだった。あの時も同じように晩秋でカーディガンを羽織っていて、その裾を引っ張られた。そしてもじもじと恥ずかしそうにそっと顔を上げて口を開いたのだ。リナリーが一緒にお茶でもどうって云ってますと、今と同じよう敬語で。突然なんだと思いカーディガンを手繰り、掴むその手を払った。そして其の儘無視して踵を返し歩き始めると再び引かれ、温もりを感じた。勢い良く振り返り放せと叫び手を振り払うがその手はきつく力を籠められ放れず、赤く染めた顔で本当に男の子なんですかと、詰め寄られた。指先を強く放すまいと握りしめられ。 ――今と同じ状況だ。 耳まで紅潮した顔、そしてその細い指は神田の指に遠慮気味に添えられている。 脈が速くなり、重なる指先が熱を帯びる。 あの、カンダさんとおずおずと聞いてくる声に我に返り、触れる手を引っ込めようとすれば逃すまいと強く握られる。 これはなんの冗談だ。悪戯にしては性質が悪い。 体中を巡る血が引き、力を籠め繋がる手を引っ込めようとするが何故か許されず、は頑なにその手を放さない。そうなると次に頭に浮かぶ言葉など決まっており、けれどそれを云ってしまって良いのかと迷いも生まれ、やはり身動きが取れない、と悪循環が生まれる。 「 食堂ならもう閉まってるわよ。」 そんな中に割って入ってきたのはリナリーの声で、の後ろから歩み寄ってきた。は身を半分其方へ向け、リナリーとどこか安心した声をもらす。 「 ビスケットと紅茶しかないけど、無いよりはましでしょ。」 そう云うリナリーの顔は真剣なもので、しかしの視線に気付くと困ったように優しく微笑む。そして繋がる指先を見るとふと息を吐き眉を寄せる。 「 、其の儘連れてきてね。」 にこりと微笑むとリナリーは先に談話室へと姿を消した。 「 ご、ごめんなさい。」 視線を落とすと、髪の隙間から覗くうなじまで赤く染めたが、無意識でそのすみませんでもリナリーも云ったように食堂はもうしまってますし一緒にどうぞと、途切れ途切れに口を動かす。その間尚も、指先には無意識であろう力が籠められた。 根負けする。 あの時も今もきっと、指先が触れた瞬間から決められていたのだ。その手を払えず、繋いだままでいた時から。 強張らせた体の力を抜くと、赤い顔が上がる。その顔は疑問の色を浮かべているが、すっと視線を外し談話室の入り口へとやれば、少し間を置いて良いんですかと遠慮がちに寄越される。端からそのつもりだったであろう者が良いのですかも何も無いだろうと思いつつも視線をへと戻し小さく頷けば、明るい声でありがとうございますと寄越される。 その笑顔に不覚にも身体が反応するが瞬時に殺し、引かれる儘後を歩く。 そしてふと、思う。 前回会った時と反応が全く違う、と。 「 今まで任務だったの?」 温かな湯気を燻らせるカップを差し出し、リナリーがお疲れ様と微笑む。ゆっくりと頷きそれを受け取って、一口飲む。 パチリと木が弾けた。 を真ん中に暖炉と向かい合う長椅子に三人並んで深く腰掛ける。小さな丸テーブルの上にはティーポットが一つとカップが三つ、それに小振りなバスケットに入ったビスケット。 重い沈黙に、暖炉の火が弾ける音だけが能く響く。 炎からへと視線を移せば、ぱちりと目が合う。が、すぐにそれは逸らされ、慌てたようにカップへと手を伸ばす。暖炉の炎が反射しているからか、その頬や耳が赤く染まって見える。 「 も神田と話しなさいよ。」 途切れた会話を繋ぐのはリナリーの少し苦笑した声。その声に顔を上げたはでもあのと、言葉を濁らせる。 「 神田に聞きたい事があるんでしょ。」 「 リナリー!」 暖炉の炎が反射する赤さでは無いそれを帯びた耳が、髪の隙間から見えた。 「 折角なのよ、ちゃんと自分で聞きなさい。」 「 でもっ!……そんなの、カンダさんに失礼じゃない……。」 微笑むリナリーにやめてよと迫るがちらりと神田を見る。目が合うと、赤い顔をより一層赤くして慌てて顔を逸らし、だからそれはもう少し後でだの、別に今じゃなくて良いからだのもごもごと小さく口の中で呟く。 その見知った反応に、懐かしさを覚え、やはりこいつは何一つ変わらないなのだと神田は確信する。神田自身に関する記憶だけが綺麗にすっぽりと抜け落ちた、なのだと。 随分昔に感じる記憶に、今と同じようなシチュエーションが神田とリナリーにはあった。 神田の事を女の子だと思い込んでいるが、神田は男の子だとリナリーから聞かされその真偽の程を確かめようとするものだ。もじもじと恥ずかしそうに言葉を詰まらせ、けれどリナリーにせっつかれ、意を決して神田へと振り向く。そしてリナリーの手を汗ばむ手で強く握りしめ、瞳を揺らしながら口を開くのだ。 「 あの、その、変な事、聞きますけど……その、カンダさんって、お……男の子だって、本当ですか?」 今にも泣き出しそうに瞳を大きく揺らし、頬を紅梅の如く染め、けれどしっかりと神田の青い目を見つめて。 これはなんの冗談だ。悪戯にしては性質が悪い。 少し前はそう思っていた。けれど今は違う。今はその、理由を知っている。だから、どうして俺なんだと、どうして俺だけなんだと腹の中に異物が生まれるのを気付かないふりをする。 「 神田。」 「 ……ああ、そうだ。」 そんな神田の心中を知ってか知らずか、リナリーが神田をせっつく。が勇気を出して聞いたんだからちゃんと答えなさいと。悲しみに顔を歪ませて。 「 ……もう寝る。邪魔したな。」 純粋な疑問を真っ直ぐにぶつけてくるに罪は無い。あるとすれば、アクマの罠に嵌った数ヶ月前のと、そのアクマを生み出した千年伯爵だけだ。そうとは理解していても気持ち悪いものは気持ち悪く、思い返される事は思い返される。俯き、苦虫を噛み潰したかのように顔を歪ませた神田は顔を上げると二人にそう告げ、カップをテーブルに置き席を立った。神田と呼ぶリナリーの声も無視して暗い廊下へと融けて往く。 残された二人は暫く談話室のドアを見つめていたが、どちらからもと無く悲しい顔を見合わせる。 「 仕方の無い人。」 ふうと、少し怒り気味に息を吐き出すリナリーはに聞こえない音量で、忘れられたのなら覚えてもらえば良いのにと呟く。 「 ……怒っちゃったのかな、私が変な事聞いたから。」 隣で、目に涙を一杯溜めたが小さく震えながら膝の上で拳を握っていた。 「 っ大丈夫よ、神田は優しいからこれくらいじゃ怒ったりしないわ。」 「 でも、それじゃ……」 「 任務で朝が早いのよ。神田が任務から帰ってきたら、亦話せば良いわ。」 「 ……でも……」 「 大丈夫よ、それじゃ明日の朝、一緒に食事しましょう。」 「 リナリー!?」 「 そうと決まれば私たちも早く休まないとね。」 リナリーは幼子をあやすように、優しくの髪を梳かした。 冷たい部屋に戻った神田。カーディガンを脱ぎ捨てベッドに倒れこむ。 嫌な予感がする。胸糞の悪い予感が。 記憶を失ったと会ったのは今日が初めてじゃない。なのにさっきは自己紹介で初めましてと云っていた。それに以前会った時と反応が違いすぎる。まるで別人のような反応だ。 初めて会った時を繰り返すような感覚。 こんな胸糞の悪い予感なんて、アクマと一緒にぶった斬れれば良いのに。 暗い部屋の中、神田はシーツを強く握りしめて渦巻く感情を必死に殺して夜を明かす。 翌早朝、森から六幻と共に帰って来た神田は団服を纏い食堂に入る。 疎らに人が食事を進める中、リナリーとを見つけた。一瞬トレイを落としそうになるが、相手もエクソシストだという事を思い出し心の中で頭を振る。任務があるのだろうと。 「 神田、一緒に食べましょう。」 リナリーとから離れた席に腰を下ろそうとすると、タイミング良くリナリーに声を掛けられる。重い腹を引き摺って顔を上げれば、にこりと微笑むリナリーと、そのリナリーに縋る慌てたような。暫く考え、それでも引いた椅子に腰掛けようとすると再び神田と、先程よりも幾分か強くリナリーに誘われる。それを必死に止めようとするだが、リナリーは笑顔で押し切る。 「 おはよう。」 「 ……ああ。」 無視して一人で食事を済ませれば良かった。リナリーの正面に座って、神田は思う。も挨拶なさいとリナリーに脇腹を小突かれ、は真っ赤な顔をちらりと神田へ送る。そして聞き取れない程小さな声を絞り出す。 「 お、おはようございます……。」 「 ……ああ。」 「 神田、ちゃんと挨拶しなさい。」 「 ……良いだろ別に。」 「 昨日も途中で帰ったでしょ。」 「 ………」 「 そんなんじゃずっとに怯えられるわよ。」 「 リ、リナリー!」 にこやかに話すリナリーの腕に縋り小さな声で良いよと呟く。そっと視線を上げると、神田の細い目とぶつかる。 かぁっと刹那に顔を染め、恥ずかしそうに俯いた。 「 お、怯えてなんかないよ……ただ、こんなに美人さんだから緊張しちゃって……。」 もじもじと、忙しなく視線を動かしティーカップへと恐る恐る手を伸ばす。その言葉を聞いた神田は、蕎麦を啜るのを一瞬、止めた。 「 美人さんって、昨日も話したじゃない。そんな緊張する事も無いわよ。」 「 何云ってるのリナリー。私、……えっと、此方の方とお会いするのは初めてよ。ですよね? あの、初めまして、と申します。」 笑ってコーヒーを飲もうとするリナリーの動きが止まる。 は恥ずかしそうにはにかむ。 一瞬の後、自嘲するように口角を上げた神田は蕎麦を啜りきり、ごくりと咽喉を動かす。 そして顔を上げ、へと哂う。 「 神田だ。神田ユウ。覚えたか。」 「 は、はい!カンダさん、カンダユウさん……?」 「 ああ。」 「 はい!神田、ユウ、さん……。」 「 ついでに云っとく。俺は男だ、女じゃねぇ。」 「 ええっ!?すっすみません!!」 驚きを隠せないでいるリナリーを他所に和やかに会話を交わすと神田。自分の思い違いに気付き顔を真っ赤に染めるは、何度もすみませんと頭を下げる。気にするなと哂う神田の眼は笑っていない。 遠くで響くジェリーの元気の良い声に我に返ったリナリーは、マグをトレイに戻し慌てて神田へと視線と声を送る。 「 っ神田!?どうして……!?」 ゆるく哂うその顔は自嘲の表情その色で、けれど怒りや苛立ちは毛ほども見えない。に覚られる事無く自嘲の笑みをこぼす神田の瞳の奥には、唯悲しみだけが鈍く光っているようだ。 「 俺が知るか。だが……なんとなく予感はしてた。」 「 でも、そんな……!!?」 「 リナリー?どうかしたの?」 カタカタと細かく震えるリナリーの背にそっと腕を回す。ゆっくりと視線の先を神田からへと移したリナリーの瞳には大粒の涙が湛えられている。 「 リナリー!?どうしたの!?」 「 ああ、嫌……、……!!」 「 ……コムイに宜しく云っといてくれ。」 「 リナリー!?神田さん!?」 「 ……ああ、神田…………」 に縋りはらはらと大粒の涙をこぼすリナリーに、神田は低い声でしっかりと伝え席を立った。状況が飲み込めないは泣きじゃくるリナリーの背を優しく擦り、席を立つ神田に困惑の声を上げ助けを求める。けれど返されるのはまたなと云う優しい声音と頭の横に上げられた五本の指。それは左右に少し揺らされ、すぐに下ろされ神田諸共食堂を出て行ってしまった。 大粒の涙とうわ言のように自分の名と神田、そしてコムイの名を繰り返すリナリーの頭をは優しく撫で、抱きしめる。何がどうなってリナリーが泣き出したのかは解らないし自分に何が出来るのかも。それでもどうにかしたいと願うは、リナリーが落ち着きを取り戻すまでずっと、優しく抱きしめ続けた。 「 解ったか?」 「 原因もメカニズムも解決法も治療法も解らないけど、三つだけ。」 「 云ってみろ。」 数週間後の司令室。 人払いをした書類だらけのその部屋に、神田、コムイ、リーバーの三人だけが生を与える。 報告書を提出した神田は破れた団服を羽織り、千鳥格子のカウチに腰を落とす。 デスクに腰掛けるコムイは、傍に立つリーバーに目配せし、深く頷いた。 「 まず、ちゃんの中に神田くんの記憶は無い。」 「 それは知ってる。」 「 次に、神田くんを記憶出来る時間は3日間。……正確には、」 「 74時間、……だ。」 「 ……それは」 「 明確な理由は不明。仮にちゃんがアクマの体内で74時間耐えたのだとしたら、 その時点でボクらの世界ではたった74秒しか過ぎてない。けど、」 「 アクマの体内でなく体外で74時間耐えてたら、か。」 「 ……その場合、には30年と5ヶ月弱の時間が経過した計算になる。」 「 ………… 」 報告書に並べられている数字を、リーバーは苦々しく読み上げる。それを聞いた神田は、けれどあのに30年も時間を重ねた痕跡は見当たらないと考える。その神田の考えを見越しているコムイとリーバーは、云い難そうに言葉を詰まらせ、苦しげに顔を歪ませる。 「 でもね神田くん、非常に云い難いんだけど……」 「 ……解ってる。推測するにアクマの体内に30年も居たんだろ、あいつならやりかねねぇよ。」 真実を知りたがっている神田に、見え透いた嘘などなんら意味を持たないだろう。例え今この場でリーバーが持つ報告書を握り潰したとしても、きっと神田は真相に迫る。ファインダーや任務先の住人、ややもすれば本人から聞き出すかもしれない。 「 ……そうなんだ。ちゃんと音信不通になった時間と合うんだよ。」 「 ……… 」 「 最初にを発見したファインダーによれば、は酷く衰弱してたそうだ。 その後に二週間程イノセンスとシンクロも全く出来なかったし……。」 「 ……そうか。それで、三つ目はなんだ。」 「 ああ、うん。」 「 それは……」 目を伏せ心の中で舌打ちする神田に、コムイとリーバーは言葉を濁した。今更何を隠す事があるのだ、これ以上悪い知らせなどありえはしないだろうと不穏に思い顔を上げる神田。目配せする二人は、少し、今までと違う色をしている。悲哀の中にある絶望、そんな色だらけだった表情の二人に、明るい色が見える気がする。 「 ……なんだ。」 「 え、うん。その……」 「 コムイ室長、これ云っても良いんスかね?」 「 うーん、どうだろう……でも、良いんじゃないかな。」 「 ……だから、なんだ。早く云え。」 うだうだと言葉を濁す二人にシビレを切らせた神田が短く舌打ちをする。きゃいきゃいと群れる噂好きの女性のように、室長が云ってくださいよ、いやいやリーバーくんが云ってよという遣り取りを見、神田が六幻に手を掛けたところで慌ててコムイとリーバーが口にした。 「 ちゃんはね、神田くんの事が好きだったんだよ。」 「 記憶を失くした今でも神田に一目惚れしてんだとよ。」 の中の神田の記憶が失くなって、三日毎にリセットされても新たに神田と会う度に、何度だって神田を好きになるみたいだ。余程ちゃんに惚れられてたんだね。 そう哀しくも優しく二人に告げられた。 そんな事、もっと早く知りたかった。ちゃんと本人の口から聞きたかった。可愛げが無い跳ねっ返りが、俺にどんな感情を抱いていたのか、そしてそれを何時どうやって俺に伝えるつもりだったのか。考えれば何故か目頭が熱くなった。 何故か? 何故かなんて知っている。俺の記憶を失ったと初めて会った時に気付いた。 俺もが好きだ。情け無い程好きだ。 今更そんな感情に気付いたところで手遅れだというのに。 情けなくて泣けてくる程、愛おしい。 「 大丈夫ですか?」 暗い廊下の一角、神田の頭の上から声が降ってくる。壁に片手をつき片膝を床に付け蹲っている状態の神田は傍から見ると気分が悪く倒れかけているように映る。そんな神田を見つけたも思ったのだろう、心配そうな声音で神田の肩に手を添えた。 「 立てますか?誰か呼んで来ましょうか?」 「 ……大丈夫だ。」 手の甲で目元をきつく擦り、顔を上げる。見上げる先の顔は心配でもしてくれているのか、眉が下げられている。返事をすると手を差し出された。少し戸惑ったが、その手に掴まり立ち上がる神田は、普通逆だろうと心の中で舌を鳴らす。 「 あの、新しいエクソシストの方ですよね?」 「 ……ああ。」 本当は違う。けれど説明が面倒な上、現状では突破口すら見つかっていないのでに話を合わせる。 赤の他人だというのに、初対面だというのに心配し手を差し伸べてくれるの優しさを、改めて感じた。 「 初めまして、私は同じエクソシストのです。あの、少し歩きますが療養所の」 「 俺は神田ユウだ。……ありがとう。」 「 え……あ、はい、いえ……!」 添えた儘の繋がった手に力と気持ちを籠めた。 幾度目の初めましてだろうか、そしてこの先幾度繰り返すのだろうか。 今は未だ解らない、もしかしたらこの先死ぬまでずっと永遠に繰り返すのかも知れない。けれどそれでも良い。 何度でも、何度だって惚れさせてやる。俺以外の男なんか目に入らないようにしてやる。 頬を赤く染めはにかむに、神田は楽しそうに告げる。 「 ついでに云っとくと、俺は男だ。女じゃない。」 「 っ!!」 |