日替わりの愛で愛され尽くされよう☆日替わりデートで行こう
セッツァー ギャッビアーニ の場合
小鳥のさえずり。小川のせせらぎ。木の葉のざわめき。
それらが爽やかな朝を演出する。
とある町外れの一軒家。立地に少々の不便はあるものの、町の喧騒から離れられ居心地が良いと住みだしたのはもう何年も前。その生活にも慣れ多少の不便は感じつつも不自由無く気ままな時間を送るは木漏れ日を瞼の裏に薄っすらと感じつつフカフカのベッドの中で気持ち良さそうに眠っている。
その眠りを妨げる者は、此処には誰も居やしない。
さえずる小鳥も、せせらぐ小川も、ざわめく木の葉も。
まるでの眠りを妨げぬようにと音楽を奏でるように優しい。
家の裏手にある彼女が育てている薬草も、気持ちよさ気にそよそよと風に揺れる。
彼女は未だ夢の中。仕合わせそうに閉じられた瞼は開く気配を少しも見せない。
ゆるゆると過ぎる時の中。
突然、木の葉のざわめきが大きくなる。さえずる小鳥たちは我先にと羽根を落として飛び立ち、せせらぐ小川には大小の波が生まれ、薬草も地に平伏すように大きくしなる。強く巨大な風が辺りに吹き荒び、黒い影が色濃く近付いてくる。家のガラス戸もカタカタと音を上げその振動を受けている。
しかしは気付かないのか、その双眸を開く事無く規則的に小さな寝息を上げているばかり。
一際大きな突風が吹き抜けると、それまでの強風が嘘であったかのようにその場は静けさを取り戻した。
飛び立った小鳥たちは戻っては来ないが、大小の波が生まれた小川は静かに流れ出し、柔らかな木漏れ日を作る大樹は優しい風に吹かれ、薬草は折れる事も無くその身体を太陽目掛け真っ直ぐに伸ばしている。
「 やれやれ、今日は珍しいいものが見られそうだな。」
薬草の生える畑を避け、の家の前まで歩くと、シルバーアッシュの長い髪を風になびかせ男性はぽつりともらす。その声音は何処か残念そうで、それでもその表情は喜色で溢れている。緩む口元そのままに、鍵の掛かったドアに手を掛け鍵が掛かっている事を確認すると嬉しそうにポケットへと手を伸ばした。
薄っすらと、厚手のカーテンを突き抜け射し込む木漏れ日を瞼の裏に感じながらも、は未だ夢の中の住人のままで。
その寝顔は仕合わせに満ちており、例えもう起きなくてはならない時間であったとしても、誰がこの寝顔を奪えるものか。少し声を上げながらコロリと寝返りを打ち、仰向けのままその仕合わせは続けられる。
「 相変わらず、可愛いお姫様だな。」
キシ、と床を踏み鳴らし窓辺のベッドの中で仕合わせそうに眠るの隣に立ち男性は髪をかきあげた。
鍵の掛かったドアを、どのようにして開けこの男性は屋内へと侵入したのか。
危機感を覚える事も無く無防備に眠りこけるをまるで眠れる森の美女のように暫く眺めていたが、男性は不意に彼女の顔の横に両手を沈め身を乗り出し、耳にそっと口を近づける。
「 おはよう、。」
低いけれど心地の良い、そんな声で囁くと小さなくぐもった声が上がった。それを確認してから唇を柔らかな頬に寄せ、少し顔を離して相手のリアクションを確かめる。んん、と小さく声が上がると共に閉じられていた瞼はゆっくりゆっくりと開かれ、色艶やかに潤んだ大きな瞳がその姿を覗かせた。
緩む口元。刹那、潤んだ大きな瞳は驚愕の色を拡げていく。
「 せせせせせっつぁー!?」
「 おはよう。能く眠れたか?」
驚き素っ頓狂な声を上げ布団を手繰り寄せるを他所に、男性――セッツァーはにこりと微笑みもう一度頬に口寄せた。
「 ちょっバカ、朝からなに……」
「 目覚めのキッス、というヤツかな。」
呆然としながらも自身の行為に拒絶の色を示すに、満面の笑みを湛え更に迫る。
が、心地良い平手打ちの音が上がるや否や、やれやれと大げさに両手を上げ溜め息をひとつこぼし、それ以上近付くなとのからの言を二つ返事で受け入れ一歩退った。
突然の来訪者及び行為に心拍数も上がり、の顔は熟れたトマトのようで、肩で大きく息をしている。
それでもセッツァーからは目を離さず、じっとその姿を大きな瞳で捉え続ける。
「 ……なにしに来たの。」
「 今日は約束していただろう。」
じっとりと、赤い顔したが睨んで口を開けば、爽やかな笑顔が寄越される。
確かにそうだけどと繋げば、だから迎えに来たのだとあっけらかんに聞かされる。
「 だからってどうして目の前に居る訳!?」
「 それはが約束の時間になっても寝過ごしたままだったからだ。」
「 ドア叩いて起こしてくれれば良いじゃん!」
「 そうしたが起きる気配も無かったから――」
「 嘘だ!そもそもどうやって人ん家の鍵開けきゃああ!?こっこっち来るな変態変態!!」
「 愛しい人の愛くるしい寝顔を見てみたいと、思う事は罪では無いだろ?」
敵意しか見せ付けないに、至って紳士的に笑顔で近付けばこちらへ来るなと悲鳴混じりに投げつけられるものだから、思わず哀しくて抱きしめてしまう。変態だの触るなだのさっさと離れろだの赤い顔で云われるが、そのひとつひとつの言動が煽情的にしか映らず抱きしめる腕に力を籠め、額と指先に口付けたところで鳩尾に鈍くも確かな痛みを感じ、抱きしめていた腕の力が緩めば首の後ろに次いで鋭い痛みを覚える。思わずベッドへと沈み込んでしまう。
顔を赤く染め上げ肩で大きく息をするは、シャワーを浴びてくるからその間リビングでお茶でも飲みながら待ってろ、覗くなよときつく吐き捨て部屋を後にした。
暫くベッドに沈んでいたセッツァーだったが、が部屋を出たのを確認するとゆっくりと起き上がりベッドから降り、チェストに手を掛けたところで後頭部に激しい痛みを感じ、促されるままにリビングへと足を運んだ。
「 さっきの事だけど。」
「 うん?」
簡素なリビングに置かれた木製の椅子に深く腰掛け、冷めたハーブティーを飲んでいると後ろから声を掛けられる。振り返る事も無く返事をすると濡れた髪をタオルで拭きながらがやかんに水を入れ火にかけた。どれにしようかと少し指先を迷わせてからひとつのビンを取り、木製のテーブルの上に置かれた空になった小さなティーポットを水で洗う。
「 愛しい人の寝顔を見ていたいと思うのは罪じゃないよ。」
「 そうだろう。」
「 でも無断で人ん家に侵入したら犯罪でしょ。」
先程までセッツァーが使用していたティーポットを拭き、冷めたハーブティーを飲み干す男を睨みつけながら凄む。
けれど当の本人は何処吹く風といった様子で。
「 鍵が開いていたんだ、仕方無いだろう。」
「 なにが仕方無いのよ!そもそも鍵が開いてる訳無いだろこのバカ!どうやって開けたのか白状しなさい!!」
「 それは愛と云う名の魔法でだな……」
のらりくらりとの質問を笑顔でかわす。
その態度も笑顔もが、積もり積もって頭にくる。如何していつもいつもコイツのペースに乗せられてしまうのか、考えたところで頭痛が起こるだけなのだがその答えを探してしまう。決して本気にはならず、大事なところは笑顔で誤魔化す。それが彼の生業、ギャンブルにおいて必要不可欠なものなのかもしれないが、せめて自分の前でだけはありのままを見せて欲しいと思うのだが、悔しいので言葉にはしないでいる。
出会った頃からずっと、彼の手の平の上で転がされているだなんて、考えれば考える程嫌な気持ちになってしまうから。
「 はぁ、鍵増やそうかな……。」
シュンシュンと鳴るやかんの火を止め、ティーポットに茶葉を入れ熱湯を注ぎながら溜め息を吐く。
「 そうだな、安全を考えるなら増やすべきだ。」
「 本当は必要無いんだけど、亦不法侵入されても迷惑以外のなにものでも、犯罪そのものでしかないし。」
「 だからそれは呼びかけても反応が無く心配になったからであってだな、」
「 チェーンロックとかも良いかも?」
「 ……エドガーに回転のこぎりを借りるか。」
「 おい。」
テーブルを拳でゴンと叩けば、満面の笑みで冗談だと返される。じっとりと睨み続けてもその笑顔が崩れる事は無い。のは、経験上知っている。
何かが虚しくなって椅子に座りジャンピングを繰り返すティーポットを眺めてひとつ息を吐く。そして、この家には必要無いだろうと思っていたセキュリティーについて真剣に考えようと決意するのだ。
「 それで、今日は何処へ行こうか。」
カップにハーブティーを注ぐと、不意にそう語りかけられた。
ん、と少し考えてから、空いているセッツァーのカップにもハーブティーを注ぎそうねぇともらす。
世界で唯一の飛空艇を所持しているセッツァーと出逢って短くないは、それ故にもうこの世界の名所と云われる場所はほぼ総て行き尽くしていた。無論それはセッツァーと共にであって、今更2人きりで行きたい、行かねばならぬ場所などすぐには思いつかない。それでも親しくなった――如何いう経緯で付き合う事になったのかは最早あやふやだが、恋人に近しい人との逢瀬に理由などは特に必要無く、逢えば何処かへ行き、その別れ際には次の約束を取り付け、亦逢い、亦約束をしと、普通のごくごく一般的な恋人のように続けてきていた。
別に行きたい場所が無いのなら此処、自分の家に居ても良いのではとも思うのだが、口の巧いセッツァーと2人きりで長時間自宅に居る事は、なにかとんでもなく後には退けないような状況を引き起こしてしまいそうで、それを本能が全力で警鐘を鳴らすものだから避けていた。それを知ってか知らずか、はたまた風を感じるのが好きなだけなのかセッツァーからも"此処に居たい"との提案が無いものだから、いつもいつも決まって外へと出て行く。
「 うーん、どうしようかな。」
「 ご要望は、特に無し、か?」
「 そういうセッツァーは、何処か行きたい所ある?」
「 と2人きりで居られるなら、何処でも。」
「 っ――!」
にこりと、綺麗な微笑み。
判っては居てもそんな台詞をさらりと云われてしまえば顔が熱を帯びる。されとて熱を帯びたところでセッツァーがからかう事も無いものだから返す言葉に詰まってしまう。それならいっそ、何か突っ込んでくれと願ってしまうのは、リップサービスだと理解しながらもその言葉に喜びを感じている自分を知っているから。その言葉に、期待してしまう自分が居るから。
恥ずかしくて、二の句を繋げない。つい俯いてしまう。
いつもの事なのに、何度も経験しているのにと、考えれば更に深みに嵌る。
「 ……と、取り敢えず支度しながら考えるから、此処で待ってて。」
「 ああ。」
そう云って逃げるようにその場を後にした。
俯きながらもちらりと視線をやれば案の定セッツァーは微笑んでいて、身体の奥底から羞恥心が溢れてくる。
こんな私を見てセッツァーは如何思っているのだろう。こんな姿の私を見て、セッツァーは楽しんでいるのだろうか。そもそもセッツァーは私の何処に惚れているのか、私に惚れているのか、好意を寄せているのかすら怪しく思えてくる。何の取柄も無く、美人でもなければずば抜けてスタイルが良い訳でも無く、ましてや金持ちなどでも無い。そんな自分と係わる事に何のメリットがあるのか、からかっているのか、からかわれているだけなのかと、逢う度に思ってしまう。
なんだかんだ云いつつ、自分がセッツァーに惚れている事は事実だと最近やっとは認めた。それはもう恥を忍びかなぐり捨てて認めた事で、そこに行き着くまでにはどれ程の葛藤があった事か。思い出すだけでも赤面ものだ。
確かにセッツァーは自分に対し少なからず好意を示しているだろう。それは見ているだけでこっぱずかしくなる程のもので、実際にされてしまえば頭の中は真っ白になり思考回路は停止してしまいそう。けれどそれが真実なのか偽りなのか見抜けられず、彼のペースに乗せられ陶酔させられてしまった感が日増しに強まってきていた。対人対処が巧くその笑顔の下の心の中が全く見えない。本気なのか遊びなのか、唯の気まぐれなのかそれとも時間潰しの為の玩具に過ぎないのか。考えて、嵌ってはいけないと判っていても既に遅く、もう自分の心を偽る事も騙す事も出来ず苦しみだけが涙と共に増えていく。
出会った頃は良かった、見せてくれるその世界の広さと美しさとだけに心奪われていたから。他の余計な事など何も考えず彼と会える事が楽しみでしかなかったから。苦しみや悲しみなど、そこには在りはしなかったから。
彼の行動の真意が判らない。彼の言葉の真意が判らない。無い筈の、有る筈の、言葉の裏を探ってしまう己の卑しさ。
「 出会った頃に戻りたい。……出会わなければ、良かったの、かな……。」
「 それは俺との事か?」
シャツを脱いで少し動きを止めれば、何故か視界がぼやけ涙が一粒落ちた。
それから間を空ける事無く声が聞こえ反射的に顔をやれば、身体が強張る。思わず無意識下で一歩退がった。
ドアを閉めた部屋の中にセッツァーが居る。怒るでも笑うでも無い、今までに見た事も無い表情のセッツァーが、こちらを真っ直ぐに見据えている。
聞かれた事への驚愕。口を開かれる事への畏怖。心の中を曝け出してしまった事への後悔。離れて行ってしまうのではないかとの事への、恐怖。
「 いつから、そこに居たの?」
やっと絞り出した声。足が震えて上手く立っていられない。怖くて、如何にかなってしまいそうで見つめていられない。けれど今、眼を離せばもう二度とその眼に映せないような恐怖感から、背ける事も出来やしない。
「 が部屋に入って、暫くしてからだな。」
微動だにしないセッツァーは、妙に淡々と映る。
もうこれで終わりなのだと思えば、嗚咽のように涙が溢れてくる。霞む世界の向こう側の、冷淡なセッツァーの顔が見えない。
「 ……俺としては絶景でいつまでも観ていたいのだが、風邪をひかれてはなんだ、服を着てはどうだ?」
「 え……?」
指先が頬に触れる。
いつの間に距離を縮めていたのか、言葉が聞こえると同時に頬を伝う涙を拭い取られた。
それはいつもの笑顔では無く冷めた表情で、どこか少し哀しげにも見えた。
「 それとも、俺は誘われていると受け取るべきなのか……。」
「 なっ……ば、ばか!離れなさいよ変態!リビングで待ってろって云ったのに如何して着替えを眺めてるのよ!」
「 いや、それが俺に与えられた使命かと。」
「 さっさと出てけっ!!」
ダン、と足を踏み付ける。いつの間にか、いつものように笑うセッツァーのいつもの軽口にふと我に返り、脱いだシャツで胸元を隠してセッツァーを部屋から押し出しドアを閉める。ドアの向こうからはと自身を呼ぶ笑い声が聞こえるが、五月蝿いバカと一蹴してやる。
ドアに手を付き体重を預けた。頭に昇った血もすぐに冷め、亦胸が締め付けられ涙が溢れる。自分の詰めの甘さを、呪いたくなる。
「 。」
「 うるさいばか。へんたい。」
「 恋人に向かって変態はないだろう、変態は。」
「 なにが恋人だ。」
こぼれる涙そのままに、震える声そのままに。嗚咽に阻まれながらも薄いドア越しに返す。
先程から堰を切ったかのように涙が止まらない。それがどんな意味の涙なのか、判るようで判らない。拭えども拭えども、次から次へとこぼれ溢れ出し止らず、胸の苦しさも一向に消えはしない。
呆れられただろうか、とか、見限られただろうか、とか。考えたくない事ばかりが頭に浮かぶ。
「 恋人じゃないのか?」
ドアの向こうから寄越される言葉。それがチクリと胸に棘を刺す。
いっそ恋人であれば、嘘でもそう彼の口から云ってもらえていればこんな事にはならなかっただろう。そう思えば更に涙が溢れてしまう。
「 恋人じゃ、ない!」
力強く、叫ぶ。
涙は止まらずその勢いは加速し、立っているのも辛い。胃の中のものが逆流しそうな感覚に襲われながら、もういっそ泣き崩れてしまえば楽になるのだろうかと、薄いドアに体重を預けたままシャツを握りしめる。
「 そうか。」
「 ……そう、だよ。」
それでも淡々と返される言に、胸が締め付けられ目頭が熱くなる。途切れ途切れに声を上げ、泣きじゃくる。如何してこうなってしまったのか、如何してこんなに苦しいのか、考える事も苦しく難解で、苛立ちにも似た感情が湧きいずる。
本当は泣きたくないのに、涙なんか流したくないのに。恰好悪い事なんか、したくないのに。
「 は俺の事好きか?」
如何して身体は云う事を聞いてくれないのか。
熱い頭で自身を呪っていると、そんな言葉が聞こえてきた。
聞き違いか、それともそうでは無いのか、顔を上げ考えればどうなんだと催促される。ああ、聞き間違いなどではなかったのだなと思う反面、この状況で何を云うのかその神経を疑う。私のこの状況を、態度を見ればそんなもの一目瞭然であろう。それなのに何故そんな事を聞くのか、私に云わせようとするのか、その理由が判らない。云わせて悦に浸りたいのか、私に更なる恥を掻かせたいのか、分不相応だと嘲り笑いたいのか、なんなのか。
それでもの神経を逆撫でするのには充分だった。
「 嫌いよ、嫌いに決まってるじゃない!
いつもいつも軽薄で、人を転がすのが巧くて、自分の本音は決して見せないくせに人には見せさせようとして。
全然掴みどころが無くて、真意が見えなくて、なのに人を惹きつけて……ずるいのよ嫌い、大嫌い!」
大粒の涙がこぼれる。
捲くし立て一息で云い切れば、その反動で苦しくなる。肩で大きく息をして、鼻をすすり、しゃくり上げ、霞む視界をクリアに保とうと目を擦る。
額に伝わる木の冷たさ。ドア向こうに居る人間は何を考えているのか、考えるのも怖くなる。こんな関係を望んだ訳じゃない、こんな展開を望んだ訳じゃないと心の中で叫びながら、自身の言葉に嫌悪する。何故素直になれないか、何故素直に好きだと云えないのか、何故意地を張ってしまうのか、嫌悪する。
「 そうか。」
少し間を置いて寄越される返事。それはやはり淡々としたもので、の胸に深く棘が刺さる。
「 そうよ。だからさっさと出て行きなさいよ!」
「 ……そうか。」
キシ、と床が音を上げる。それはゆっくりと離れて行き聞こえなくなった。
そこで初めて、泣き崩れた。
自身を支えていた何かが無くなり、身体に力が入らなくなって重力に逆らえず膝から崩れ落ちた。声を上げる。自分を律するものも制するものも何も無く、もう何も失うものは無いと声を上げて泣き叫ぶ。堪える事も遠慮する事も無く、その声の続く限り口を開け、床を叩いて泣いた。戻らぬ日々を思い返し、聞こえぬ声を思い出し、吐き出した言葉に、嫌悪を抱きながら泣き叫んだ。
どれ程時が経ったのか、いつまでもそうしている訳にもいかないと、泣き腫らした赤い目のまま着替えてリビングへと足を向ける。明日は町へ行って薬草を売る予定だった、裏の畑へ行って必要なもの取ってこなければと、ぼうとする頭で翌日の、これからの生活を考える。何も変わらない、そう、私の生活は何も変わらないじゃないかと云い聞かせるように反復してリビングのドアを開ければ、テーブルの上の2つのティーカップからは温かな湯気が立ち昇っていた。
それを見ると再び視界が霞み胸が痛くなる。けれどその反面、それ程時が経っていないのだと冷静に分析する自分を見つける。
「 ……苦い。」
ティーカップから口を離し、誰にともなく呟く。霞む視界はカップからくゆる湯気のせいか。これを飲んだら畑へ行こう、仕事をしよう。
「 そうなんだ。」
そう思った。なのに思わず、思考が止まる。
誰も居ない筈の家、私以外は誰も居ない筈の部屋。にもかかわらず、自分のでは無い声が聞こえた。幻聴か、私の心はそんなに弱かったのかと自嘲の笑みがこぼれそうになる。そんな心を落ち着かせる為にももう一口飲んだ。やはり苦い。セッツァーと共に飲んだ時はそう感じなかったのに、これは喪失感が思わせるものなのかと、亦目頭が熱くなった。
「 俺が淹れるとどうも苦く――不味くなるんだよな。」
「 ……そうね、セッツァーの淹れるお茶は独特の味になるわね。」
嗚呼亦かと、思いながらも目を瞑って幻聴に返事をした。こぼれる笑みはきっと自嘲のそれで、頬を伝う涙はお茶が苦いからで、胸が苦しいのは痛むのは、他でも無い私がバカだからで。
「 でも私はセッツァーが淹れたお茶嫌いじゃない。好きよ。」
勝手に期待して勝手に自滅して、勝手な事ばかり云って傷つけてしまった。最低だ。
「 俺はが淹れてくれるお茶が好きだ。優しくて美味しい。」
「 ありがとう。」
なのにこうして幻聴を求めるほど、愚かでもある。幻聴なのに、私が創り出している言葉なのに、喜んでいる私はバカだ。救いようの無い。
「 俺はが好きだ。」
「 ……ありがとう、私も好きよ。セッツァーの事、好き。」
嗚呼、幻聴だけでは足りなくなったのか、セッツァーの温もりが蘇る。セッツァーの香りが、肌の感触が。
言葉を詰まらせ涙を流す。果てを知らぬが如く溢れ出る涙に、苦笑がもれた。どれだけ流せば涸れるのだろうか、止まるのだろうかと。カップを机に戻し顔を両手で覆う。それでも消えぬ背中の温もりに、残り香に、感触に涙は止め処無く溢れる。
「 酷い事を云った、私は、最低だ。」
「 そんな事は無い。」
「 怖くて……セッツァーがどうして私の隣に居るのか判らなくて……」
「 それはが好きだから」
「 不安で、それでも私の心は止まらなくてどんどん好きになって。だけどセッツァーの心の中は全然見えなくて、」
「 気持ちは伝えていただろう。」
「 そんなの、判らない。リップサービスだって自分に云い聞かせて、必死に好きにならないようにしてたのに、止まらなくて……」
「 リップサービスなんか、本当に好きなんだ。でなけりゃ触れたりしないさ。」
「 そう思っても、不安は消えなかった!」
「 何故だ!俺の何がを不安にさせていた!?」
「 直接的な言葉が欲しかった……嘘でも偽りでも良い、それがあれば信じていられたのに……怖くて云い出せなかった。」
「 嘘なんかじゃない、偽りでもない。俺はが好きだ。」
「 もう良い、もう、遅いよ……ばか………私の、ばか……。」
「 遅くなんかない!は俺が嫌いか!?」
「 五月蝿い、もう良い、もう聞きたくないっ!!」
振り返って手を払った。居る筈の無い、聞こえる筈の無い声を振り払おうと不恰好にもがいた。
けれど振り払った手に人の肌がぶつかって、そこから微かにだけれど確かに温もりを感じた。だからもう良いんだと、ゆっくりと涙で崩れた顔を上げれば今度は幻覚かと、セッツァーを見つける。如何すれば良いのか、自分はこんなにもセッツァーを求めていたのかと自嘲の念が浮かぶ。幻聴だけでは飽き足らず、その香り、温もり、感触、そして幻覚までをも生み出している。それを目の当たりにし、どれだけ本気で惚れていたのかを痛感した。
声をもらして笑えば、幻覚であるセッツァーの顔が僅かに歪んだ。
「 」
「 もう良いよ、終わりにしよう馬鹿げてる。好い加減、幻覚とか笑えないよ。」
「 聞け、俺は幻覚なんかじゃ――」
「 セッツァーが私に惚れる訳無い。」
眉根を寄せるセッツァーに低い声で返せば、己で云った言に再び涙が込み上がる。もう嫌だと、顔を両手で覆っても肩に触れる温もりは消えず、両手で耳を塞いでもその優しい声音は続いてる。
気が狂いそうになる。目は熱く身体はだるく、頭は考えることを拒絶する。なのに目の前に居る作り物のセッツァーは消えず、俺の話を聞いてくれと訴えてくるばかりで、如何すれば良いのか、如何したいのか判らなくなる。今のこの歪んだ甘い時に身を委ねても、良いものかと判断力が鈍ってしまう。
「 、俺は本物だ、幻覚じゃない。」
そんな筈無いと首を振る。セッツァーが私を好きな筈無いと、私にとって都合の良い事ばかり云う筈が無いと首を振る。それにあんな酷いことを云ったんだ、いつまでもこんな所に残っている訳が無いと続ける。
「 ならば、飛空艇が飛び立つ音を聞いたか?」
肩に優しく触れる手が頬に添えられ流れた涙を拭い取る。その感覚はいつかのそれと同じで、でもそんな筈は無いと、泣いていたから気付かなかったんだともらす。
「 じゃあ、テーブルの上のカップはどうなる。何故湯気が未だ出ているんだ?」
が淹れてからもう随分経つから湯気なんてとうに消え冷めてる筈だろうと、両手を頬に宛がわれ上を向かされ、真っ直ぐに見つめられる。それは、と云ったところで涙が一滴こぼれセッツァーの指を濡らす。頬を伝わらぬ涙に、それは時がそれ程経っていないからだと云うも、確かにアレだけの時間があったのに勢い変わらず立ち昇る湯気に違和感を覚える。それに思い返してみれば、自分が淹れたハーブとは全然違う香りと味がしていたと、気付いてそれは確信へと変わる。
そして再び流れ落ちる、熱い涙。
「 俺は最低な男だな。男として、失格だ。」
表情で悟ったのか、セッツァーは睫毛を伏せ息を吐いた。
「 ちが、そんなこと……!」
「 こんなにを泣かせて不安にさせ、肝心な事を何一つ伝えていなかった。
それでも気持ちは通じていると胡坐を掻いていたのだから、最低だぜ。」
「 違う、違うよ。」
「 すまない、きみの不安に気付けなくて。きみを、沢山傷つけた……」
「 そんな事無い!」
ぽたぽたと溢れる涙は先程までのものとは違う。胸の痛みも苦しみも、同じように別のもの。
悲しげに謝罪するセッツァーの手に手を重ね、は首を振る。
「 私がもう少し素直で、もう少しセッツァーを信じていれば……私がもう少し強ければこんな事……」
「 ――」
「 ありがとう、嬉しい。私、セッツァーと、……セッツァーの、―――兎に角、好き。セッツァーが好き。嫌いなんかじゃない。」
喜びの色に満ちながら熱い涙を一筋落とす。言葉にしたいけれど出来ない言葉を、心根素直にぶつけてみた。それが一番伝わるだろうと思い。
「 ……俺も、好きだ……。」
泣きながら笑うを強く抱きしめ耳元で囁けば、細くも強く抱きしめ返される。甘く柔らかなの香りが身体に広がる。
解けた誤解はハーブティーの湯気と共に部屋から煙突へと流れ空へと消える。眩しい太陽が高く輝く、空へと。
暫くして離れ顔を見合わせれば、どちらからともなく笑顔がこぼれる。
甘い雰囲気にセッツァーが目を伏せ唇を寄せれば、明るい音が心地良く響きわたる。少し赤く腫れた頬をさすりながら、セッツァーはの淹れたハーブティーに口付ける。それをにこやかに見つめるは、ねぇと話しかけた。
「 遅くなったけど、今日は何処に連れて行ってくれるの?」
聞いたセッツァーは少し意地悪に笑う。
「 泣き腫らした赤い目で、か?」
「 いーの!それなら涙を乾かしに連れて行ってよ。」
「 オーケーお姫様。その願い叶えましょう。」
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