豪華なシャンデリア。
シンプルながらも煌びやかなテーブルクロス。
慎ましく、けれど品のあるフラワーアレンジメント。
どれひとつをとっても超がつく一流なのだと嫌でも一目で判る。
無縁の世界だと思っていた。私にはなにひとつ、永遠に無縁の世界だと思っていた。
それが今、目の前に広がっている。
嘘偽り無く、その世界の中に入っている。
訳が判らない。そう、訳も判らない。
けれどその訳も判らぬまま通される儘に私は前を歩いている人物の後に付き従うのみ。
独りでこの世界から脱出するのは無理だ。
明るすぎる世界。
耳には品の良い話し声と流麗なピアノの音だけが侵入してくる。
極度の緊張。
足は震え真っ直ぐ歩く事すら難しくて、手に汗を握る。頭の中は真っ白で、目の前は白と黒が交互に点滅しているよう。のぼせ上がるかのように、身体中が寒くも熱い。
究極に場違いだと、自覚しているのに。見て取れるのに。
悠然と前を歩く人物は判ってくれているのかいないのか、私にこの場に居るように強制するようで。
そう、この私の前を歩く人物と一緒に居る、尚且つ2人きりだという状況だけでも果てしなく緊張するというのに。
何故このような事になったのか。
思い返してみても思いつかない。
「 どうぞ。」
「 えっ!?あ、ああ……どうもすみません………」
ありがとうございますと口の中で呟くと、黒いフォーマルな服を着た品と姿勢の良い男性は椅子を引いてにっこりと微笑む。
でもその笑顔がバカにしているようにしか私には見えない。
た、多分そんな事はないと思うんだけどね……。
「 わたくしが致しますので……」
「 えっ?あ、す、すみませんっ……!」
嫌な汗が噴き出る。
引かれた椅子の前に立ち、椅子に触るとやめろと云う声が掛かる。
品と姿勢の良い男性は笑顔を崩す事無くやんわりとその旨を私に伝える。一度ならず二度までも、恥ずかし過ぎて顔から火が出そうだ。
否、そう思うのは私では無く、私の前に手馴れた様子で着席した北見先生の方だろうか。
ぎこちなく椅子に座り何気なく正面を見ると、ブリザード。
冷たい眼が私を侮蔑している。
嗚呼、辛い、痛い、耐え難い。気を抜けば涙が滝のように溢れ出しそう。
雰囲気に呑み込まれ身動きひとつ取れやしない。
視界の端ではドレスをお召しになられた貴婦人が盛装をした殿方と楽しそうに食事をなされているというのに。
目の前では、給仕の方と目を伏せられた北見先生が流れるようなやり取りをしている。
まるで切り出された絵画のようだと錯覚する。
見事に溶け込んでいて、北見先生もこの世界の住人なのだと、恐縮する。
すぐにメニューをお持ちしますと云って給仕の方が下がられた後、顔を上げた北見先生と眼が合った。
思わず逸らす。
力いっぱい、首を動かす。
言葉が出なくて泣けてくる。きっと今頃北見先生は眉間に皺を深く刻んで私を見下ろしているんだ。
どうして俺がこんなマナーも知らないガキと一緒のテーブルに着かなければならないんだと溜め息を吐いているに違いない。ああそうだきっとそうだ。
スカートの上に余っているテーブルクロスの端を握りしめても、一向に緊張は止まない。
寧ろ2人きりにされた事によって増しているかもしれない!
怖い、怖い、怖過ぎる!
何かひとつでも粗相をすればその冷眼で射殺されてしまう。そうなれば私はもう生きて二度と歩けなくなってしまう嗚呼怖い。
「 ワーグナーのジークフリート牧歌、か。これをピアノで弾くとはな。」
目を瞑ってテーブルクロスを握りしめていると、そんな声が聞こえた気がした。
気のせいだ、否、悪魔の囁きだ!
そう思い込みたかった。
「 ……どうかしたか?」
けれどそれは許されず、少しの沈黙の後そう続けられた。
これはもう、逃げ場が無い。
否、初めから逃げ場などありはしないのだろう。逃がしては、もらえないのだろう。
どんなカタチであれ、腹を括るしかないようだ。それはもうきっと、切腹に近いそれ、で。
「 く――」
「 お……」
しまったかぶった!!
北見先生の言葉とかぶってしまった北見先生の言葉を止めてしまった……!!
最悪だ、私の人生はここで終わる。
ああ、お母さん……先立つ娘をどうか憐れんでやって下さい…………合掌。
恐る恐る顔を上げてそおっと見れば、不愉快だと云わんばかりのご尊顔を給わる。
て、て、て、天罰?
いかん、泣きそうだ。本気で。怖い、殺される本当に。
「 失礼致します。」
心の中は嵐。滝汗が流れ落ちる。
そんな私を救ってくれたのは、黒衣の天使!?
声の方向へと顔を向ければ、きりりとした顔が見えた。そしてこの顔には見覚えがある……ついさっき見たばかりだ。
私達をこのテーブルへと案内し、私をエスコートしてくれた、そして黒い微笑みをくれた給仕の方だ。
すいと、差し出される。
震える手でそれを受け取って、前に座る涼しい顔をした人の見様見真似で開くと、飛び込んでくるのはローマ字。
整然と並ぶそれにお門違いではあると知りつつも、ほのかな怒りを覚えてしまう。
どこまでもひとを除け者にして、どこまでも嘲るかのように。
英語はそれなりに出来るけど、はい、読めません。何語ですかこれ。ドイツ語?イタリア語?
―――ああ、フランス料理だからフランス語、か?
ぼ、ぼう……ぼうあご……?
駄目だ、これは一体何が書かれているのですか。ああもう、食事とか如何でも良いから一刻も早くこの場を立ち去りたい。駆け足で、誰にも負けない速さで立ち去りたい。
「 ……くんはどれが良い?」
は?
なに、なにが?どれってなにがですか?
ローマ字と格闘してて話を聞いてませんでしたすみませんっ!
でも馬鹿正直にそんな事云えない……。
ええいもう、ままよ!
に、にこー……
「 ………」
ごめんお母さんやっぱり私もうおうちに帰れない。
ごめんなさいごめんなさいすみません私が悪うございました申し訳ございませんでした。
笑って誤魔化そうとかしてごめんなさい。しかもかなりの引き攣った笑顔でごめんなさいもうしません許して下さいお願いします!!!
「 くん?」
「 ……はい。」
「 どれが良いか―――好きなものはあるか?」
「 あの……」
「 遠慮せず好きなものを頼んでくれて構わん……」
ですから、その選択肢がそもそも判ってないのですがどうしましょうか。
流石にもうこれ以上北見先生に恥をかかせる訳にもいかないし。北見先生の名誉のためにも。
怖すぎて顔が見れん。というか視界の端にすら入れられない。
キラキラと眩しく光る水の入っているだろうグラスを見つめる事しか出来ないデス。
「 ……どうした?」
どーもこーもないですけどね。
「 いえ。……あの、その………北見先生と同じもので、良いです……。」
メニュー読めないし。
どうしよう、もしこれで私の苦手な料理が出てきたら。でも我慢して食べるしかないのか。
うう、折角の高級ホテルでの食事なのに憂鬱だ。
「 ……そうか。」
こんな事なら院長に脅されても断って、 韮崎先生達と一緒に行けば良かった。
そもそも如何して院長は私を北見先生と同行させたのか。私が慌てふためく様を見て楽しんでる?うわー、あの院長ならあり得るし。
うあーん、全力で断れば良かったぁ。
そうすれば今頃先輩ナースさん達や若手ドクターさん達と楽しく過ごせていただろうというのに。
どうしてこうも気を張り詰めなければなりませんか。ちくしょう、スキンヘッドめ。
「 失礼致します。テイスティングをお願い致します。」
「 ああ。」
凛と通った声に、否応にも無く亦現実へと連れ戻される。
前を盗み見れば、ワインを大事そうに持った先程の給仕の方が居る。能く見れば胸にキラリと光るソムリエバッジがつけられているではありませんか。
キュポンと小気味の良い音を上げコルクが抜かれ、トクトクとワイングラスの中に紅い色が少し注がれる。
豪華なシャンデリアの光を受け、それはまるで宝石のように光り輝いている。
其処に静かに添えられる、細い指。
流れるような動作で顔の前まで持ち上げ、色と香りを確かめてグラスの淵に唇を寄せる。そっと優しく、触れるように。
薄っすらと残っている紅い色が重力に従いグラスのカーブにあわせ底へと移る。
北見先生は慣れた様子で、顔色ひとつ変えず淡々とこれでと答えていた。
なんというかそれが嫌味でも皮肉でもお世辞でも無く、似合っていたから仕方無い。
堂に入っているというか、そう、幼稚な例えではあるが絵になっていて、思わず見惚れてしまった。
先程迄とはどこか違う胸の高鳴り。
先輩方が北見先生にラヴコールを送る理由が、少し判ったような気もする。
流麗なピアノの音が響く中、北見先生のワイングラスに亦華やかな紅い色が添えられる。それから私のワイングラスにも、同じ色が添えられた。
テーブルの邪魔にならない位置にワインを残し、ソムリエの方は深々と一礼をし静かに背中を見せる。
はたと、目が合う。
気まずくて、ついと逸らす。
嗚呼亦。さっきまでと同じ空気が戻ってきた。
怖い。
「 きみにテイスティングしてもらうべきだったか。」
ふと、そうもれ聞こえた。
顔を上げれば眉間に皺、けれどどこか少し困ったような色。
なにか、云うべきなのだろうか。
「 ……いえ。私ワインはあまりいただく機会がありませんでしたから……。」
飲まされても判りませんよ良し悪しなんて。
「 じっと見ていたから……」
「 いえ!そんな……ただ、」
そこまで云って、息と共に飲み込む。
「 ……ただ?」
案の定、つっこまれてしまった。
つっこまれても困るだけなのに。見惚れていたなんて口が裂けても云えないもの。
「 いえ、その……なんでもありません……。」
「 ……そうか。」
………空気が重い。
というかじっと見ていたからとか――――私バッチリ観察されてますか!?
ひぃっ、怖過ぎる!!
なにひとつとして、本当になにひとつとして粗相出来ないじゃないのかこれは。ナイフひとつフォークひとつ落とそうものなら……想像しただけでも胃が痛くなってくる……!
お手洗いに立つ事すら許されないような……というか、どのタイミングでお手洗いには行けば良いの?行って良いの?
「 さっきの事だが」
そっと視線を逸らし重要な事を考えていると、ピアノとは違う音色がひとつ。
反射的に返事をし顔を上げると、真っ直ぐな眼差しとぶつかる。
思わず、息を呑む。
「 何か言いかけていたが、あれは何を云おうと……?」
独特の間を作られる。
私が、最も苦手とする間、だ。
仕事の時もこの間に、余計にプレッシャーを与えられて頭の中が真っ白になってしまう。
怖くて、逃げ出したくなってしまう。
目を逸らしたい。けれどそれも許されない。
真っ直ぐにひたすら真っ直ぐに見据えられ、微動だに出来ない。身体も指も、声も震えだす。
「 さ……っきの、と、申しますと……」
嫌な汗が噴き出す。もうさっきがいつのさっきかすら判らない。
「 ……ソムリエがワインのメニューを持って来る前、のだ。」
――――ワインのメニュー?
もしかしてあの時渡されたのはワインのメニューだったのか?というかそれじゃ、ワインだけでもあんなに種類があるって事!?
読めないよ!カタカナ表記にしておくれよ頼むよ!!
「 ………くん……?」
「 え?あ、ああはい、えっと――」
そう、云いかけた言葉、よね。
ええと、ソムリエが来る前は何をしていたか……という事だからあの時はー……確か北見先生がワグナーがどうとか仰られて、だからそう、ピアノの曲が、なにかって、事、よ、ね……?
あれ、あの時私が云おうとしてたのって、もしかしなくてもアレよね。
そうよアレよ。
え?でもそれを今改めて云うの?
無理でしょ。
云える筈無いじゃない。だってアレなのよ?
ワグナーなんて誰かも判ってないのに。というか人か如何かも定かじゃないのに。その上クラッシックなのかクラシックなのかそれも判らないしそもそもそんな音楽は学生時代に授業で聞いたきり。
そんなレベルなのに、云えようものですか!
「 何を云おうとしていたんだ?」
そんな、北見先生。
私をこれ以上責めないで下さい。
先生と違って私は学も教養も無いのですから。
私だけ、この世界に溶け込めていないのですから。
「 どうし」
「 北見先生。」
出来るだけ自然な声で。出来るだけ自然な表情で。……笑顔はきっと無理だから、表情で。
「 ―――なんだ。」
タイミングの良い事に料理も運ばれてきた事だし、もう良いか。
もう、楽になろう。
「 特に気にして戴くような事は何も申し上げようとしていません。」
内心バクバクしてるし嫌な汗もダラダラと噴き出してるけど、なるたけ冷静さを装って。こう云えばきっと北見先生は退いて下さるから。
さらっと、トイレの水を流すように流して下さるからもう大丈夫。
早く食べて早く帰ってしまおう。
「 ――――……俺が気になるんだが……」
「 そうですね、冷めないうちに早くいただきま―――――え?」
はたと、思考が止まる。
今、北見先生はなんとおっしゃられて……それは無いでしょいくらなんでも、私の聞き違いよね!?
そうそう、ないない。
ないんだから、早く食べてさっさと帰るのよ。
この拷問のような煌びやかな世界からさっさと撤退するのよ!
「 あぁの、ほら、折角の料理ですし冷めないうちにいただきましょう。」
「 ……」
「 と、取り敢えず、カンパーイ。」
震える指先でワインの入ったグラスの脚を持ち上げる。冷や汗をかいた満面の作り笑顔で。
じっとりとした眼差しが痛い。痛いと云うか辛いと云うか怖い。もう如何でも良いから早くワイン飲んで酔わせてくれ。下さい。
「 ……なんて……あは、は………。」
「 ……乾杯。」
乾いた声と共に向かいのグラスが上げられた。
その姿はやっぱり映画のように綺麗だけど、正直私は怖いです。私だけがサスペンスホラーを観ている――見せられているようです。
ついと腕が動かされ、グラスは中身を少しだけ減らされ元の位置に静かに戻される。
私もいつまでもこれを持っているのは可笑しいよね。
でもワインって未だ数回しか飲んだ事無いんだけど、大丈夫かな。酔ったりしないかな。酔っても良いけど変に酔ったりしないかな。そもそもこのワインって美味しいのかな、今までワインを飲んで美味しいとか感じた事無いんだけど大丈夫かな、これは美味しいのかな。
それにしても緊張し過ぎてるんだけどちゃんと味とかって判るのか、そっちの方が問題でしょ。
でも考えてても仕方ないし、考えてる時間も無いし、飲むしかないのよね。
「 ……いただきます。」
誰に断ってるのか、そう呟いてグラスを持っている腕を動かす。
ひやりと冷たい感覚が唇に当たり、するりと通り抜ける。
―――ゴックン。
「 ……」
「 …………」
やっちまったぜベイベー。
ワインを飲んで咽喉を鳴らすとか、どうなのよ。どうなのよ自分。
明らかに北見先生が残された量と私が残した量が違う。なんかもう、全体的に違う。
すみません北見先生、本当にすみません恥ばかりかかせてしまって。
ああもう、最低、最悪。
悪夢としか思えないような夜。
もう、本当にどうにでもなって下さい。
プツリと糸が切れたかのように、グラスに残っていたワインを飲み干す。グラスの内側につうと滴る紅が綺麗とか思う余裕も無い。
ワインが美味しいのかどうかも判らなかった。なんかもう、バリウムを飲んでるような感覚?
その後飲んだ水が妙に冷たく感じた。これは何のせいだろう。
料理も、何を食べてもどれを食しても味が判らなくて。折角の高級料理だというのに……。
口を動かしても動かしても無くならなくて、まるで干し飯を食べてるような感覚で。でもこれならいっそ本当の干し飯の方が美味しく感じる筈だ。
北見先生を一度たりとも見れない。
間を埋めるように、ワインに手が伸びる。
嗚呼。
こんな事なら本当に、韮崎先生達と一緒に行けば良かった。
韮崎先生達と一緒なら楽しめたんだろうな。こんな緊張せずにリラックスして、もっとフランクに明るく。
ああ、どうしてこうなっちゃったのかな。
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