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6月12日、朝―― 長雨が続くイギリスにある黒の教団は、朝から甘い香りを振り撒いていた。 「 ……リ、リナリー、朝からこのにおいは…………。」 「 ごめんねリーバー班長、みんな。でももう少し我慢してもらえないかな。」 目の下に大きなクマを作る科学班の面々と、厨房から申し訳無さ気な顔を覗かせるリナリー。甘くて良い香りだと微笑む他の教団職員の中に、眉を顰め苦笑いするレイチェルの姿もあった。 ( 今年もリナリーは手作りケーキ、か…… ) カウンター越しに厨房の中をひょいと覗き込むレイチェルは、ジェリーからオニオンベーグルとヨーグルトとコーヒーを受け取り適当な席に腰を落としては溜め息をひとつこぼし目を伏せる。 6月12日――今日は黒の教団本部の室長でありリナリーの兄でもあるコムイ・リーの誕生日前日だ。 先週行われた『神田くんサプライズ・バースデー・パーティー』を思い出しくすりと口元を緩めるレイチェルだが、和らいだ表情はそれでもすぐに消され、真面目なものへと、そして思い悩んだようなものへと変えられてしまった。 「 ……今年は、如何しよう………。」 溜め息と共に吐き出される、小さな呟き。 明日はコムイの誕生日。レイチェルは密かに想いを寄せるコムイに、とても素敵なもの――とはいかないが、プレゼントにとワインを用意している。しかしその想いは己が心の中にだけ秘めたもの。互いに世界の命運を掛けた戦争に身を投じている者同志、故に不必要な感情は抱いてはならないと、自分自身に毎日言い聞かせている。例え今日、戦禍に捲かれ二度と生きてこの地を踏めずとも、明日そうなろうと、後悔したとしても決して伝えるべきではないと、伝えてはならないと祈りのように繰り返してきた。 ( …………やっぱり今年もカップケーキを配るのかしら…………… ) 力無くベーグルを頬張りもそもそと口を動かしては、もれる溜め息。 本来ならば好きな人の誕生日前日は、明日は如何しようとあれやこれやと考え楽しい筈であるが、戦争に身を投じている立場にあってはそうも言ってられない。けれど何かしたい、しかし相手や周囲に気持ちを覚られては宜しくない。 ――そんな葛藤の中レイチェルが出した結論は、周りも平等に祝えば問題無い、だった。具体的に何をしているかと言えば、科学班やエクソシスト、探索部隊や通信班など、自分と親しい人間すべての誕生日を祝うという、木を隠すなら森の中よろしく作戦だった。人数が多くなるから高価な物は買えないが、安価で手軽に作れるカップケーキを作っては、ほんの気持ちばかりだと配っていた。それは勿論、本命であるコムイに対しても。一応喜んではもらえたが、命よりも大切なリナリーが作るケーキやプレゼントには遠く足元にも及ばないと、微笑み涙を呑んでいた。 しかし人間の欲望とは果てないもので、一度膨らんだ風船が元には戻らないように小さくはならない。 カップケーキを配るだけでは満足できなくなっていたレイチェルは、ここ数年、カップケーキとは別にワインやコーヒー豆もこっそりと贈るようになっていた。深夜、理由をつけ、タイミングを見計らい2人きりになった時にこっそりと。1人でも、その他誰かとでも消費出来、証拠が残らない物をと考え、尚且つ世界中を飛び回るエクソシストの特権だとでも言わんばかりに、名だたる世界有数の物を。それはいつからか、自分の誕生日にコムイが同じくワインや香水をプレゼントしてくれるようになったからかも……そこまで考えた時に、団服の内ポケットから無線ゴーレムが勢いよく飛び出し、無機質な音の後に愛しい人の声を聞かせた。 『 朝早くからで申し訳無いんだけど、スミスさんに任務に就いてもらいたいんだ。』 高鳴る胸も、がくりと項垂れる身体も、どちらも素直な本音。解りましたと応え、レイチェルはもうひとつ溜め息を吐いた。 ( 今年はカップケーキすら配れない……ワインは独りで飲む他無いわね……… ) 「 スミスさん!」 「 スミス殿!」 アクマが破裂し粉塵が風に飛ばされる。橙色の太陽が西の空に沈み始める頃、薄紫色の空の下でレイチェルは膝から崩れ落ちる。けれどその手にはキラキラと輝く新しいイノセンスがしっかりと握られ、決して放そうとはされない。少し離れた場所で結界を張っていた探索部隊のゴズとトマはアクマが消滅した事を確認してから転がるように飛び出してレイチェルへと走り寄り、血と砂に塗れた彼女の身体を抱き起こした。 「 ……トマ、さ…………こ、れ、………………… 」 「 喋らないで下さいませスミス殿!イノセンスは私とゴズ殿が命に代えても御守致しますから!!」 「 …………みま……せ…………………… 」 「 すぐ病院に着きます!気をしっかり持って下さいスミスさん!!」 レイチェルから新しいイノセンスを受け取ったトマはそれをトランクに丁寧に仕舞い結界を張り、自身のコートを破り応急処置にと止血する。おろおろと見守るゴズは血だらけのレイチェルを抱きかかえ、なるたけ揺らさぬよう、けれど全速力で病院の扉を叩く。手術台に乗せられたレイチェルは麻酔は使わないで欲しいと蚊の飛ぶような声で途切れ途切れ伝えるが、迅速に指示を出し照明と消毒用アルコールの臭いに包まれるドクターによってその願いは脆くも砕かれた。カチリコチリと時計の針は進み、血の付着した機具が増える。その扉の外では、今か今かと終わりを待つ蒼白とした顔のゴズとトマが、教団への報告を終え祈りながら待っていた。 この世から影が消える一刻――マジック・アワー。 手術を終え、病室のベッドに横たわるレイチェルの双眸がそっと開かれる。ぼんやりとした視界に映るのは、見慣れぬ天井。此処は何処だろうと目と首を動かす。指先や末端が痺れている感覚、白い簡素な部屋、鼻の奥を刺激する強いにおい。寝ていた頭が徐々に目覚め、状況を飲み込み始めると同時に汗が噴出す。 ( ――――リー室長!!) 冷水を頭から浴びせられたかのように、瞬時に覚醒する。 「 …………ゎ……デンワ、電話は何処!今は何時!?」 痛む身体も腹もお構い無しに、ベッドから飛び降りたレイチェルは崩れる身体に鞭を打ち部屋の外へと這い出る。その叫び声に何事かと走り寄って来たナースがベッドへと連れ戻そうとするが、レイチェルは今は何時だ何日だ電話は何処だと叫び前進するばかり。今は6月13日の18時少し前だとなだめるように1人のナースが声を上げれば、暴れているレイチェルは電話をさせてと包帯に血を滲ませながら叫ぶ。金切り声を上げるナース達が必死にレイチェルを制止させるのだが、何処にそんな力があるのだと言いたくなる程の力を発揮し、レイチェルはイノセンスを発動させナースを千切っては投げ千切っては投げ状態で廊下をずるずると進む。が。 「 大人しくしてなさい!」 物陰から音も無く現れたドクターにこれでもかと注射を打たれ、力を無くす。やれやれ元気な患者だと溜め息を吐くドクター達に向かい薄れ往く意識の中最後の力を振り絞り、レイチェルは探索部隊を呼んで頂戴と叫んだ。 薄紫色の空が漆黒に変わる頃、再び目を覚ましたレイチェルは跳ねるように飛び起きた。そして命よりも大切なイノセンスを手にしようと枕元を探すが見当たらず、何処に行ったのだと嫌な汗が噴き出す頃、横になって下さいとレイチェルのイノセンスを手に持つトマとゴズの声にはっと振り向き、開口一番、今何時と回らない呂律で叫んだ。ズキリと痛む腹に顔を歪め、今は6月13日の20時ですと答えるトマに思い出したかのように私のイノセンスを返してと落ち着いたトーンで返す。発動して暴れないで下さいと心配するトマに、気が付かれたので教団に連絡しましょうと床に置いていた電話を持ち上げ心配げに微笑むゴズ。トマから自身のイノセンスをしっかりと受け取ったレイチェルはゴズへと顔を向け、こくりと深く頷いた。無線用ゴーレムを繋ぎジーコジーコとダイヤルを回すゴズを静かに見つめるレイチェルの顔は、ぽや~んとしたようなとろ~んとしたような、瞳は鈍い光を湛え覇気が無い。如何やら未だ薬が効いているようだとトマはほっと胸を撫で下ろす。 「 スミスさん、どうぞ。科学班班長のリーバー・ウェンハムさんです。」 「 り、りーばーさんですか、そうですか、解りましたありがとうございます……。」 にっこりと満面の笑みで受話器を差し出すゴズにペコリと頭を下げ、ぽや~んとした焦点の定まらない瞳を丸くし受話器を受け取る。 ( どうしてリー室長じゃないの……?) クエスチョンマークを飛ばしながらも、受話器の向こうからもしもしと優しく労うリーバーの声が聞こえたので、レイチェルはありがとう私は大丈夫よリーバーと酷く落胆しながら報告を始めた。 「 ……ありがとう、ございました……。」 受話器をゴズに返し頭を下げる。頭を上げて下さいと慌てるゴズにはいと返事をするレイチェルは、意気消沈といった具合にベッドに倒れこみ、段々とはっきりしだす痛みに僅かに顔を歪め冷や汗を浮かべる。その表情をしっかりと見逃さなかったトマはドクターとナースを呼び、レイチェルを診たドクターがあまり乱発すべきではありませんがすぐに痛みを取り除きますねと微苦笑し、白い包帯だらけのレイチェルの腕に鎮痛剤を打った。ゆっくりゆっくりと痛みが引き、同時に意識も遠のく中でもう良いかと諦めたレイチェルは、抗う事も無くそっと瞳を閉じた。 もやもやと視界が揺れる。暗い世界に、色とりどりの光が差し込みかけたその時、自分の名を囁かれ優しく揺すられている事に気付きレイチェルは薄っすらと目を開ける。暗い視界の端ではオレンジ色の何かがゆらゆらと揺れ、それが目の前にある何かをぼんやりと浮かび上がらせる。夢と現の狭間で揺れるレイチェルの手を取り、トマはそっと受話器を握らせて耳に当てさせ、コムイ室長殿からお電話ですと静かに微笑んだ。薬と夢から未だ覚めやらぬ頭は、けれど愛しい人の名に反応する。 「 ――もしもし、スミスさん?」 ( ――……りー、しつちょう……?) 力の入らぬ手で耳に受話器を当て、レイチェルはゆっくりと睫毛を動かす。 耳元で不鮮明に聞こえる愛しい人の声、それだけで嬉しくなりレイチェルは小さく声をもらし笑う。緩やかに弧が描かれた口元はふと消され、そしてすぐに再び優しく弧を描く。 「 ……リー室長、お誕生日、おめでとうございます……。」 「 ――――っ……、ありがとうスミスさん。」 楽しげに、力の入らぬ身体総てを喜ばせ、微笑みながらゆっくりとそう伝えた。瞬間、耳に届くノイズが消え、ほんの暫く間を置いてから優しいコムイの柔らかい声音がノイズ混じりに耳に届く。その言葉が、トーンが、言い方が嬉しくて、レイチェルはふふと笑う。 「 それより身体は大丈夫かい?だい――」 「 リー室長。」 「 ……なんだい?」 「 好きです。」 「 っす――……!?」 気分が良いのか薬の作用かはたまたそのどちらもが関係しているのか、ふわふわとした感覚に襲われているレイチェルはにこりと微笑み、照れる事無くさらりと言ってのけた。 隣で電話機を支えているトマは盛大に驚き支える手を離し声を出しそうになるが慌てて飲み込み、手に強く力を入れ離すまいとしっかりと持つ。これは聞いてしまって良いのだろうかとうろたえつつも、レイチェルの側を離れる訳にもいかないと自分に言い聞かせ、素数を数えようと心の中で素数を数え始めた。 レイチェルの耳元には言葉を失くしたコムイの驚く声だけが届いており、その受話器の向こう側では口を押さえ耳まで真っ赤に染め、椅子から立ち上がった儘立ち尽くすコムイの姿があった。転がりザァと流れたコーヒーは大切な書類の上に、大きくシミを作っている。 優しく続く沈黙。コムイの耳には、柔らかに笑うレイチェルの声だけが届いている。 「 ……ほ………本当に――――?」 額に手をやり、赤面した儘の硬直した表情で恐る恐る聞き返すコムイの声は震えている。 その耳に届くノイズ交じりの不鮮明な音はフィルターに掛けられているが、とても穏やかで優しい音色。 「 はい、もちろんです。もうずっと前から、リー室長が好きです。」 まるで天使の羽に包まれているような感覚だと、コムイは震える。嬉しげにくすりと声を出して笑うレイチェルの表情は、穏やかさそのもので。子供のように無邪気に微笑み、隣で必死に素数を数えるトマまでも赤面させる。 「 ……ありがとう…………ありがとう。……ボクもスミス――――レイチェルちゃんが、好きです。」 赤い顔をして目に涙を浮かべるコムイはこれまでに無い程に満天の笑みをこぼし、眼鏡を外して手の甲で目元を覆う。そしてグズッと鼻を啜り、音も無く口の中で愛してますと呟いた。 そのコムイの返答に気を良くしたのか、レイチェルはほんのりと頬を桜色に染めにこにこと嬉しそうに頷きはいと返した。 零れ落ちる涙を手の甲で拭き取るコムイも嬉しそうに、声にならない声でうんうんと大きく頷いている。 レイチェルの隣に立つトマは、最早素数を数えるのも忘れ優しく微笑むレイチェルをがっつり見守り、そのリアクションから上手くいったのだなと他人事ながら喜んでいる。 「 リー室長。」 「 ……なんだい?」 「 はい。遅くなりますが、プレゼントにワインを用意していますので、私が帰ってから一緒に飲みませんか?」 「 ……うん、楽しみにしてるよ、待ってるから。ありがとうレイチェルちゃん……。」 「 はい。」 にこりと元気よく返事をするレイチェル。耳元では、なんだか照れ臭いなと笑うコムイの声が優しく響いている。 ふと訪れる、くすぐったい沈黙。 照れ笑いをもらすコムイがキミが無事で良かったと安堵の溜め息を吐く。けれどそれに対するレイチェルからの反応は何故か無く、唯ノイズだけが無機質に流れている。今の今まで楽しく話していたのに突然如何したのだろう、急に不安に突き落とされたコムイは真剣な声でレイチェルに話しかける。 「 もしもし、どうかしたのかい?……レイチェルちゃん?」 「 …………コムイ室長殿、失礼致します……。」 「 キミは……トマくん?レイチェルちゃんに何か――!?」 「 ……大変申し上げにくいのですが、スミス殿はその――……眠られました……。」 「 ねむ――ね…………そ、そうか、眠ったんだ、ね……?」 目に見えて解るように落胆するコムイに、トマは苦笑しながらそうで御座いますと返し、顔の横で無防備に広げられているレイチェルの手をそっと布団の中へと戻した。そうだよね、随分手酷い怪我を負ったんだから休息が必要だよねと溜め息を吐き、軽く笑ってのけるコムイは眼鏡を掛け直してから転がったコーヒーカップを起こし、大きなシミが出来た書類を拾い上げてはもうひとつ溜め息を落とした。 「 その……薬の副作用によってかスミス殿の意識ははっきりとはしておらず、何と申し上げますか………」 「 ……混濁していたんだね?ありがとうトマくん……。」 「 もっ申し訳御座いません……!」 キミが謝る事じゃないよと力無く笑うコムイは肩を落とし書類を手放した。 「 ……スミスさんに伝えてもらえるかな、能く休むよう。動けるようになったら、無理せず教団に帰ってくるようにって。」 苦笑するコムイに、御意にと伝えるトマは優しく揺らめくロウソクをふっと吹き消し部屋を出る。 電話を切ったコムイは椅子にどっかりと腰から倒れこみ、白い天井を見上げては大きな溜め息を吐く。 暖かな布団に包まれているレイチェルは、仕合わせそうな寝顔をしている。 |