おめでとう、その一言が






   
霧の都ロンドンとは能く云ったもので、黒の教団総本部があるイギリスがロンドンは今日も朝から濃霧に覆われている。
例に漏れず黒の教団総本部の建物も、まるでその姿を何者かから隠すかの様に深い霧に閉ざされていた。
それでも内外に居るエクソシスト始め職員達は、今日も今日とて仕事の激務に追い立てられているのである。
そう、それが例えば誰かの誕生日だったとしても関係無く、流れ落ちる砂時計の砂の如く時は流れ去って往くのみ。


「 ふあ、あぁ……。」
明るくしろよと進言したくなるような薄暗い教団の廊下を、大きな欠伸を噛み殺す事無くしかし口元に右手を沿えて歩くは、小さな任務を幾つもこなした後で少し疲れている風ではあるものの、なかなか寝付けないのか未だ早朝だというのに左手に自身のイノセンス、対アクマ武器の蒼穹の風を持っている。
寝付けないとは云え激務の連続の後、眠たそうに幾つもの大小様々な欠伸をこぼしながら。
それでもその足が向かう先は、自室でも談話室でも食堂でも、ましてや療養所でも無く教団建物の外の、教団が所有している森であった。
任務後の暫しの休暇中だと云うのに、一人修錬をしようとは真面目なのかはたまた莫迦なのか。濃い霧が総てを隠す様に覆う屋外をは何の迷いも無くその森へと歩いて行く。
科学班特製の団服は着ていないものの、その右手にはしっかりと科学班特製の彼女専用のグローブが着けられている。
それが意味する事はつまり一つで。
「 ぁあ?」
一段と大きな欠伸をした時、濃霧が支配する森の入り口で、何かに気づいたは低い声を落とした。
と、同時に欠伸をしていた眠たげな顔はその表情を変え、悪戯を思いついた子供の様に無邪気な笑顔を満面に湛えている。
そうして一度大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
これは彼女流のコンセントレイションを高めるものらしい。
それを終えた後、悪戯な笑みを湛えたままは森の中へと足を踏み入れる。
「 遊んでやりますか。」
楽しげにこう残し、音も無く森の中へ、奥へと足早に駆けて往った。


さわさわと木の葉がこすれる音だけが、この場に響き渡っている。
早朝の森はそれ自体が独特で、どこか神聖ささえ醸し出しているように思われる。とりわけ、濃霧に支配された森は神聖さを増し、危うさや怪しさまで誘い出す。
そんな中、一枚の木の葉がはらりと音も無く落ちていく。
それは重力に逆らう事も無く逆らう術も持たず。小さな風に弄ばれながら上から下へと地面に向かってゆっくりと音も無く落ち往く。はらり、ふわりと。風に運ばれ、地に誘われ。
ヒュッ―――
木の葉のざわめきを割る様に入ってきたのは風を鋭く切り裂く音。
カサリと小さな音を立てて地に落ちた一枚の木の葉は、斬り口鋭く見事なまでに真っ二つに裂かれていた。
何かが地に降り立つ、そんな小さな音が上がったのはその直後で、目隠しをした神田が自身の対アクマ武器の六幻を右手に持ち佇んでいた。
そう、風に舞う木の葉を真っ二つに斬ったのは目隠しをしたままの神田だったのだ。
これは彼独自の修錬なのか、落ち往く木の葉を次々と斬り裂いている。
倒木や湿地と、足場は決して良くないものの、それをものともせず小さな音だけを上げ次々と見事に木の葉は斬られゆく。
その様はまるで目隠しをしていないのではないかと疑いたくなる程に流麗で、第三の眼、或いは心眼といったものの存在を思わせる。
神田は無言のまま、没頭する様にそれを続ける。


どれ程経ったのか、神田の身体から僅かに湯気が昇り始めた頃。
それでも構わず独り修錬を続ける神田は、未だ目隠しをしたまま六幻を握り振るっていた。
「 !?」
―――――カンッ
それまでとは違う音が、上がる。
反射的に六幻を振るった神田にはそれまで木の葉を斬っていた感覚とは全く違う別の感触が不意に与えられた。
「 ……。」
気になった神田が目隠しを外そうと手を掛けたが、それは決して許されず。
ドドドッ――と小気味良く、テンポ良くその音は上がり神田は目隠しを外す事を許されぬまま身体を機敏に退ける。
「 ……上等だ。」
怒るでもなく笑うでもなく、しかしそのどちらをも複合させたかの様な顔と声で一言漏らす神田はまるで何かを決めた様にも悟った様にも映る。
その神田の言葉を合図にしたのか、次々と容赦なく神田目掛け放たれるそれは、その手を緩める事も休める事もなく。
まるで森の中で縦横無尽に狩りをする豹の如く神田を追い立て駆り立てる。
しかしその爪は神田の身体には届く事は無く、周りの木に当たったり地へと刺さったり、神田の六幻に叩き落されたりしている。
それでも確実に、神田を森の奥深くへと誘う様に追い込んでいく。
木の葉のこすれる音だけが響いていた静かな森に、神田の走る足音と何かを撥ね退ける、叩き落す音そして突き刺さる小さくも煩い音が何時の間にやら介入していた。
倒木が幾つも転がる整備のされていないその野生そのものの森。
目隠しをした神田が駆け抜けたその跡には、幾つもの木の枝が地面に突き刺さっていたり転がったりしていた。


「 ……はあ………はぁ――――。」
濃霧が支配する教団の森の奥深く。
汗を流しその身体から湯気をくゆらす神田は未だ目隠しをしたまま佇んでいる。
荒々しく呼吸をし、左手で豪快に流れる汗を拭う。
「 ……しぶとい奴ね。好い加減、当たりなさいよ。」
その神田を木の上の陰から狙う様に見つめているのはで。
これが最後のネタなんだからとぼやくその手には、一本の細い枝が握られている。
そう、狙う様に見つめているのではなく、本当に狙っているのだ。
神田の息が少し上がっているようにの息も僅かに上がっており、大木の幹に自身の身体を隠しながら最後の一撃に集中する為息を整え、一度大きく息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出す。
目隠しをしたまま障害物を避け尚且つ自分目掛けて放たれる木の枝――最早それは矢の如く――を総て避け叩き落す神田も神田だが、視界0に近い濃霧が支配する森の中を機敏に動くまるで草食動物の様な神田目掛け木の上を移動しながら木の矢を射る、共に相当にハイレベルな技術だと云って良いのではないだろうか。
しかしそれもこれも次の一撃で総てが決まる。
互いに殺気を探り合い、互いに殺気を殺し合い、それでも互いに居所を探り合う。
深い深い森の深い深い霧の中。
「 一撃必殺。くたばれユウ。」
狙いを定め、弦を引く。
しなる弓はキュンと高い音を鳴らし、放たれた木の枝はまるで鋭い矢の如く迷い無く重力をも味方にし神田へと一直線に落ちて往く。
風を裂く高い音は木の葉のざわめきにかき消され。
森の中に身を隠し獲物へと静かに早く身を寄せる王者豹の如く、それは狩られている神田へと向かう。
カンッッ―――――トス――
しかしそれは無情にも、六幻によって二つに圧し折られ少しぬかるんだ地面へと突き刺さった。
風に揺れる神田の髪と白い目隠しは静けさを取り戻した森の中を悠然と流れる。
それはまるで、まるで森の王者豹――黒豹の流麗な尾の様で。
今ここに、神田の勝利が静かに告げられた。
「 もう終わりか。」
六幻を振り下ろし響かせる神田は、つまらんとでも云いたげに勝ち誇った笑みを見せ鼻で笑う。
そして六幻を地面へと突き立て自身の眼を覆っていた白い目隠しをゆっくりと外す。
暇潰しにはなったかと笑う神田を、は大木に隠した背中で見る。
その顔は正に悔しさといった色で満ち溢れており、ギリと歯噛みしている程だ。
あんにゃろう許さねぇ、勝ち誇ったように笑っちゃって許さない、途中何度か躓きそうになってたくせに許さない、持てる木の枝の絶対数なんて決まってるんだからこれは攻防で云えば防の方が圧倒的に有利なのよ許さないチクショウなにがなんでも許さないわ。
そんな事を静かに物語る顔は、悔しさに歪んだそれから徐々に不敵な笑みへと移される。
何か、未だ何か秘策でもあると云うのだろうか。

「 地獄に堕ちろこの暗黒魔人め!」
そうが声を上げた瞬間。
蒼穹の風は文字通り蒼く静かに瞬き、力強い輝きを放つ一閃の蒼い光が神田目掛け放たれる。
「 !?」
刹那、土煙が昇った。
バラバラと落ちる土は嫌に水音を響かせ、その煙の奥に一本の蒼い光と六幻を発動させた神田を据える。
地面に突き刺さる蒼い光は、神田により発動させられた六幻によってどうやら進行方向を無理矢理に変えられた様で、団服を着ていないむき出しの神田の身体に刺さる事は無かった。
舞い上がった総ての土が返った頃、やっとその重い口は開かれる。
「 ――に、すんだよ!
 行き成りイノセンス発動させる奴があるか!!」
その怒気が含まれた苛立ちそのままの言葉は、大木の上より見下ろすへと向けられたもので。
発動させた六幻を握りしめ事の原因へと睨み付けながら神田は叫ぶ。
それに対して幾分涼しい顔をしているは、第二陣の用意をしながら木の上に立っている。
「 ユウが、あまりにも大人気ない反応するから!」
それでも口をついて出た言葉は感情に任せた物云いで。
神田に負けた事がそれ程までに悔しいのだろうか。
「 先に仕掛けてきたのは、お前だろ!」
「 それはユウが一人で修錬してるのが判ったから遊んで―――協力してあげようと思ってだね……。」
「 今遊んでっつったろお前。」
墓穴を掘ったのか、ついつい本音が口をついたのを素早く訂正したものの後の祭りで、神田はの言葉を綺麗に聞き逃さずにいた。それどころかそれを逆手に取り責め立ててさえいる。
IQは低くともPQは高いというやつだろうか。
そんな事無いよとうそぶくは、なかなかに動揺しているが決して神田への攻撃態勢を解く素振りは見せない。
先のの言葉通り、は森の入り口に達した時森の中に人が居る事を察知していたのだ。所謂狩人の勘というものだろうか。そしてその人が誰か――つまり神田だとすぐに判ったは神田を追いかけながら木の枝を拾い歩き、追いついたところで発動させていない蒼穹の風で射ていたのだ。
遊んでやりますかとはつまりそういう意味で。
神田を修錬の協力という名の下に、森の奥へと射りながら追いたて駆り立てていた。
しかしそれをことごとく打ち崩され、最後の一射すらも圧し折られてしまい遊ぶつもりが遊ばれてしまった事に一方的に苛立ちを覚えたは最終兵器にイノセンス発動を企てた、という事だ。
が、それすらも寸でのところで回避されてしまっては、面目丸潰れも良いところである。
「 人を……俺を遊びの道具にするとは随分ナメられたもんだな。」
不敵に微笑みながらじりじりと間合いを詰める神田もその右手に握る六幻の発動を解いておらず。
一触即発。
そんな言葉が酷く似合う構図が何時しか出来上がっていた。

どちらもが狩る側で、どちらもが狩られる側で。
矛盾した等式はしかし均衡を保っている。
裸足の爪先に神田が力を込めたその時に、その矛盾した均衡は煩くも破られる。
「 ユウは……ユウは、大人しく遊ばれてれば良いのよ!」
そう声を上げ叫ぶと同時に、は2度目の弓を引く。
大きくしなる弓は蒼く静かに燃え上がり、一閃の煌きを連れ立つ蒼い矢は力強く放たれる。
「 なんでだよ!」
律儀にも言葉を返す神田は、自分を目掛けて飛んでくる光の矢を六幻で斬り裂き一歩足を退げた。
と、三打四打と間を置く事無く仕掛けられ、小さく舌打ちをひとつしてから後ろに大きく跳び退がり災厄招来と叫び、一幻を放ち相殺させる。
しかしは尚も攻撃の手を休めずに弓を引き続ける。まるで悔やみや妬みを払拭させるかの如く、テンポ良く無作為に乱打する。
声を上げながら応戦するも、足場の悪さがに傾くのを嫌い神田は今一度一幻を撃ち出し、出来た少しの隙を突いて森の更に奥へとその姿を隠す様に走らす。
「 敵将首、貰い受けた。」
と意味の判らない声を上げるは軽快に木から飛び降り、嫌な水音の上がるぬかるんだ地面へと立つ。
その顔は先の神田の様に不敵に微笑んでおり楽しそうでもある。
随分と小さくなった神田の後ろ姿へと弓を引き蒼い光の矢を幾つも放つ。テンポ良く、しかし不規則に。
そうして再び神田を森の奥へ奥へと追い立てる。まるで奥へと誘っているかの如く。
蒼い光の矢は、幾つも幾つも煌き神田へと吸い込まれる様に飛んで往く。
それをかわし時には受け止め時には受け流し圧し折る神田は、後ろ向きに森の奥へと駆けている。
しかしその体捌きは見事なもので、流れる様に倒木をかわし生い茂る木々をかわす。まるでそう、後頭部にももう一対の眼が存在するかの如く、ひらりひらりと軽快にかわしている。


「 ―――チッ、キリがねぇ。一体何考えてんだの奴は――っ!?」
光の矢と木をかわしながら進む神田が少しの愚痴を漏らした刹那、神田の踵に何かがかかった。
随分なスピードで移動をしていた事も手伝い不意に訪れた事態に対処する術を持てない神田の身体は、スピードと重力に預けられぐんとその引っ掛かりを軸に円を描く様に後ろへと倒れ往く。
「 しまっ―――!!」
云い終える前に身体は濃霧の立ちこめる森の中へと沈んだ。
しかし尚もからの攻撃は止まず、光の矢はキュンキュンと放たれている。
これまでか――――そう思ったのも束の間。背中は生える草を捉え光の矢は目の前を過ぎて行くだけだ。神田の視界は90度傾き生い茂る木々と濃霧を捉えていた。
神田の異変に気付いていないのか、の矢は尚も神田の目の前を通り過ぎるだけで一向に身体へとは飛んでこない。
暫く、ほんの数秒それを眺めていた神田は不意に息を漏らす。
フッと小さく短く漏らしたその顔は、優しく笑んでいた。
流石のもこの濃霧のせいで俺が倒れた事までは見えなかったか……闇雲に射っても俺には当たりゃしねぇぜ。
それにしても右足の踵に引っ掛かった物は何だったのだろうか。倒木や石のそれと云った類の感触ではなかったんだがと思い神田が小さく顔を上げた瞬間。目の前を一際大きく輝く光の矢が通った。
「 !?」
と同時に神田の身体は大きく揺れ、暗闇へと飲み込まれる。
ほんの数秒後に大きな衝撃が腰から全身へと走り鋭い痛みが駆け抜ける。
揺れた衝撃に六幻は手から離れてしまい自然その発動も解かれ、何処に在るのかすら神田からは確かめられなかった。
神田は、落ちていた。
深く深く掘り下げられた穴に、落ちていたのだ。
上からはパラパラと土が滑り落ちてき、更に神田の身体を汚そうとしている。
「 ……ンだよクソが。」
状況を理解した神田はこう吐き捨て、腰から落ち不可抗力に折り曲げられた身体を伸ばし地に足を着けたところで上からの気配に気付く。
が、時既に遅し。
勢い良く上を向いた瞬間、視界いっぱいに白いものが拡がり、それは自分の顔の上に緩やかに着地したのだ。
ふわりと、優しく薫るのは藤の香で、それはが好んでいる香でもあった。
これは―――
「 私の勝ちのようね、ユウ。」
そう思うと思考の先に居たその人物の、柔らかい声が降り注いだ。
視界の総てを奪った白い物体、によって落とされたタオルを取り神田はその仏頂面を覗かせる。
穴の上からはきゃらきゃらと笑うが発動の解けた六幻を片手に手を振っている。
「 ……これは――――が?」
刺々しい声音で訊ねる神田にはウィンクを飛ばす。
「 そ!
 随分前にね、いつかユウと此処で遊ぶだろうと思ってさ。ま、森で狩人に勝てるなんて思わない事ね。」
十年早いのよと加え、悪戯に笑うは楽しげに神田へと目掛け土を落とす。
それを手で払い除ける神田は、面白くないと云った顔で睨みあげながら溜め息を一つもらした。

「 ねぇ、ユウ。こんな時になんだけどさ。」
「 なんだよ。」
這い上がって来た神田の頭を撫で繰り回しながら、は上機嫌に口を開く。
六幻を手渡し神田に落としたタオルで神田の頬についた土を落としながら。
「 誕生日、おめでとう。
 まさかこんなカタチで云うとは思わなかったけど、これはこれでありだよね?」
にこりと満面の笑みをそえ、優しく頬を拭きながら。
突然の言葉に応えられない神田は、唯頬を少し紅らめ眼を丸くしながらあぁと返すので精一杯のようだ。