甘い夜
月が啼くのは私のせいじゃない。私が啼くのは、月のせいじゃない。 麗らかな8月の下旬。 「 よろしく頼むよ〜、く〜ん。」 朗らかに響くのは、コムイの喜声。 「 ……〜〜それは良いけど、それじゃこっちはどうするのよ?」 書類の山を小脇に抱えながらうなだれた声を上げるのは、。 此処は司令室。はコムイから、エクソシストの任を受けていたところだった。 が。 「 出立は明日の朝で良いから、今日中にそれ、よろしくね?」 パチリと飛ばしたウィンクは、の二挺拳銃空砲乱打によって脆くも壊されてしまった。 ひとしきり暴れまわったは、小脇に抱えた書類の山と新たに渡された数枚の報告書を手にし、一礼をしてから司令室を後にした。 教団の廊下の外は、煌煌と静かに夕陽が燃えている。それを横目で恨めしそうに睨み付けながら、小脇に抱えた書類の山を片付けるべく科学班室へと向かった。 「 だあー、やーっと終わったーあ!!」 薄い羊皮紙とペンを高く天にかざし、ギシッと背もたれを軋ませながら叫ぶ。 それに呼応するかの如く、こっちも終わった〜というゾンビのようなしわがれた声が幾つも上がるのは、深夜だというのに明明と灯の点いた科学班室だ。 互いにしわがれた声を振り絞り労いあうのは、科学班室の面々とエクソシストの。二時間ほど前まではリナリーも居たのだが、夜も更けてきたとの事でが強制的に部屋へ送り届けていた。室長であるコムイはというと、別件が立て込んでいると称し司令室に篭りっぱなしだ。 「 悪かったな、こんな時間まで手伝ってもらってよ。」 「 ん?ああ、リーバーが謝る事じゃないわ。それにこれ位、いつもの事でしょ。」 ポンと肩に手を置きながら声を掛けるリーバーに、ケラケラと疲れの色を見せる事無くは笑って机の上を片付ける。 それを隣で見つめるリーバーは髪を掻きながら、でもなと続けた。 「 明日の朝、任務に出るんだろ?」 ぴくりと、一瞬机の上を片付けていた手を止めたはゆっくりと振り返りリーバーへと顔を向ける。その顔は驚いたような困ったような、マズイといった類のモノに見受けられ。 「 誰から聞いたの。」 そう、一段トーンを落とした声は、怒っているように聞こえた。 「 リナリーからだよ。コムイ室長がを司令室に呼び出してたってな。」 帰る前にこっそり教えてくれたんだと云うリーバーの顔は疲れとは別にどこか呆れ気味で。 反論しようにも、机の上にこれでもかと云わんばかりにデカデカと書かれた報告書の文字が踊っている薄い書類が山の頂に乗っている事を思い出したので、出来る筈も無い訳で。 ああ、うん、はいと。頷く以外は出来なくて。 「 適当に切り上げてくれてよかったんだぞ。これは一応俺等の仕事なんだから。」 「 でも、任された仕事を途中で放り出すのは趣味じゃないの。」 心配しているのもされているのも、解りきっている。 リーバーはを、はリーバーを。 資料との闘い、アクマとの闘い。 どちらもそれなりに頑固で、どちらとも折れる気は更々無くて。それでもこの根競べの根底には優しさと思いやり。 「 倒れんじゃねぇぞ。」 「 そっちこそ。」 ふっと息を吐き出して、眉根を寄せて笑い合う。 灯を消して科学班室を出たのは、草木も眠る時刻。 どういった訳か。部屋が近い訳でも無いのにリーバーはを送っている。長く暗い廊下に響く、2つの異なる足音。 行き交うのは、足音と呼吸音。 付き合っている割に色気が無いとは周りからも能く云われているが、実際2人の間で付き合う前と後とで変わった事など殆ど無く、仲の良い仲間の延長線上にあるみたいだとは、誰の云った台詞だったか。 明日の―――日付が変わっているので正確には今日の朝、エクソシストとして任務に出るというのに、2人は無言だ。否、任務に出るからこそ、無言なのかもしれない、が。 いつ戻れるかも解らない、もう二度と戻れるかも解らない、文字通り命懸けの任務。 こんな特殊な状況下でなければ、もうすぐ来る自分の誕生日も一緒に祝えるのにと心の中でひっそり思うのはリーバー。 「 もうすぐ誕生日だけど、なにか欲しいものはある?」 そして間髪入れずにこう自分の顔を見上げ訊ねてくるのは、愛おしくてたまらない人。 もしかしてエスパーなのでは、と一瞬我が耳を疑うも、ねぇと微笑んで催促してくる可愛い人を前にするとそんな事は酷く如何だって良くなる。 そうだなと呟いて、自分が今最も欲しいものを考えてみる。 「 ……ちゃんと仕事してくれるコムイ室長。」 なんて、妙に切実な言葉が口をついた。 云った後で慌てて今のは違うんだと否定してみたところでの耳には届いておらず。暗くひっそりとした長い廊下に明るい笑い声が咲いたのはそのすぐ後。 「 オーケーイ、リーバーちゃんの欲しいものはよーっく解ったわ。でもそればっかりは、私には無理ね。」 「 違うんだ、今のは違う、無しっ!!」 からかわれているとは解っていても、云われてしまえば否定せざるを得なくて。キャラキャラと笑いながら右に左に捕まえられず逃げるように歩くを追いかける。 疲れか、眠気か、はたまた別の要素がなのか、のテンションは妙に高い。 そうこうしている間にも、の部屋は近づいてきて。 「 それじゃあ、"ちゃんと仕事するコムイ"は兎も角、他になにか欲しいものは?」 部屋のドアに背を預け子供のような笑顔を向ける。 だからそれはと返すリーバーは、勘弁してくれよといった顔で苦く笑いながらも考える。 少しの沈黙。少しの間。 「 思い浮かばない?」 くつくつと困ったように笑いながら、やれやれと息を吐く。 「 ヤベーな、特に欲しいものが思い浮かばねぇよ。」 それに呼応するかの如く、盛大な溜め息を吐くのはリーバーで、ヨレヨレの白衣から伸びた手で髪を掻く。 「 これじゃ本当にプレゼントは"ちゃんと仕事するコムイ"になるわね。」 「 ああ……でもそれはそれで嬉しいよ。」 どこか楽しそうに云うに対し、リーバーは空笑いだ。 自分が今、何が欲しいかすら解らない――そんな状況に、嫌気がさしているのか。眉間には誰かさん宜しく皺が刻まれている。 「でも、欲しいものが無いっていうのもあながち悪い事だとは云えないわよね。」 「 !?」 「 現状に満足してるって事でしょう?良い事よ。――――――――多分。」 「 ……多分ってなんだよ多分って。」 「 Maybeよ、不確定要素。」 それ以上でもそれ以外でもないわと呟いて、は口を閉じる。 肩口に抱きしめたリーバーの髪に顔を埋め。 不意に抱きしめられた当の本人は、が云い終わった事を確認してからの細い躯を包み込んだ。 じきに訪れる、永遠にも似た別れに心追われながら、必死に心を読まれまいと押し込めて。 抱きしめる度に、この腕に抱きしめる度に思うのは、早く平和な世界がおとずれないかという事。けれどそれを求めているのは自分だけではなくて、此処に居る人間は少なからず全員そう願っていて。それを口にすれば優しいは自分を贄にしてでもそれを成し遂げてしまいそうで、けれどが居なければ世界が平和になろうとも意味が無い。 そう、俺が求めているのは、隣にが居て笑っている仕合わせ。 ああそうなんだと、解って何故か安心した。 「 プレゼント。」 「 なにか思いついた?」 「 ああ。」 云って、強く抱きしめる。 「 が隣に居てくれれば。それが良い。」 あくる朝10時少し前、リーバーがの部屋を訪れると其処はもぬけの殻だった。 ガランと広がった空間は主の残り香を申し訳程度に留め、息を殺して拡がっている。 誕生日プレゼントに何が欲しいかと問われ、やっと答えを云ってみればそれは伯爵とイノセンスとコムイに因るわねと泣き出しそうな顔で笑われデコピンを喰らった。 明日は何時に起きるんだと聞いたところ10時に起きれば充分よと返されたので今に至る訳だが、どうにもこうにもこの部屋の空気は、冷たい。 8月下旬のあの独特な乾いた暑さとは裏腹に、ベッドのシーツには人肌の温もりは残っておらず。 ああ、あれはの優しさだったのだと解った頃には時既に遅し。彼女はもう教団内には居ない、そう確信出来た。 それじゃ10時に起こしに来るからと云ってすぐに別れたのは、間違いだったのだと、一人自己嫌悪に陥るだけ。笑顔でおやすみと手を振ってくれた彼女の瞳に映った自分は、相当に疲れていたのだろうか。 「 なら6時にお弁当取りに来てすぐに発ったわよ。」 そうジェリーに聞かされたリーバーは、自分の詰めの甘さとコムイへの憎悪に項垂れる他無かった。 「 任務というのは重なるものね。」 「 そうだな。無理してねぇか?」 「 リーバーこそ、ちゃんとお布団で寝てるの?」 「 あー、ダイジョブ。」 「 その口ぶりは寝てないのね。」 日は流れ、残酷にももうすぐ9月8日になろうとしていた。 あれからは一度も教団に戻る事無く、幾つかの任務をこなしていた。 その任務を総てこなし回収した複数のイノセンスを持ち、今教団への帰路へとついているところだ。 コムイに報告をと電話を繋いだところ生憎というか席を外していたので代わりにリーバーに報告をし、雑談へと移っていた。 電話越しとは云え、2人が会話をするのは実にあの夜以来で。 リーバーは一区切りついた仕事の後片付けをしながらコーラを飲んでいる。 日付の感覚すら失っているリーバーは、よもやもうすぐ自分が誕生日を迎えようとしている事すらも忘れてしまっているようだ。 軽い雑談に華を咲かせ、共に今生きている事を慶び合う。 意識せずとも、深層心理では。 「 ああそうだ、そっち今何時?」 「 今?23時47分だけど、どうかしたか?」 「うわあ……。」 ふと思い出したのか、が時間を尋ねたのでそれに応えると、機械越しに小さく何かが漏れ聞こえた。 「 何?」 「 あーなんでもない、そろそろ切るわね。」 「 え??」 ブツン。 そう云われるや否や、それから耳元に届くのはの柔らかい声音では無く無機質で電子的なザアアというなんとも耳障りな機械音。 「 いつもいつも、唐突だよな。」 ふっと一つ短く息を吐いて、窓の外を照らす月を見上げる。 それでも元気な声が聞けて良かったと、この時ばかりはこの場に居合わせないコムイに感謝するリーバーだった。 9月7日、23時58分。 科学班室を後にし自室に戻ったリーバーは白衣を机に放り投げ資料だらけの床を一歩一歩進みながらベッドへとその身を沈めた。 もうすぐ日が変わる。 ベッドに沈められた時計を救出してそんな事を思う。今日は久しぶりに午前様じゃあないなと。 59分。 もう後1分もせずに日が変わる。ああ、そういえば今日は何月何日だったっけ。 カチャリ。 とろりと重たい目蓋は、柔らかな布団に包まれ夢の世界へと強く誘う。それに抗う意味も理由も持たぬリーバーは、迫り来る快楽に身を任せきっている。 もう後30秒で日は変わろうとしている。 キイィ―――― 涼やかな風が部屋の中に潜り込んで来る。しかしそれを気にも留めず、リーバーは夢の世界へとその身を投げ込もうとしている。目蓋はもう、重く閉ざされてしまった。 「 リーバー。」 不意に、愛しい人に名を呼ばれた気がして重たい目蓋をこじ開けた。 まさか。 そうだ、そんな筈は無い。今し方、10分程前に電話をしたばかりではないか。そう、電話を。無線ではなく、電話を。 だからこれは聞き間違いだ、空耳なんだ。 柔らかな布団の上で寝返りを打ったのが、日が変わる20秒前。 眠たい眼でドアの前に佇んでいる人物を捉えたのが、日が変わる18秒前。 それが誰だか理解したのが、日が変わる14秒前。 「 ……。」 そんな情けない声で愛しい人の名前を呼んだのが、日が変わる11秒前。 「 ただいま。」 そう云って抱きしめられたのが、日が変わる2秒前。 は色々な物と共にリーバーの胸へと飛び込んだ。 「 お誕生日おめでとう、リーバー。」 溢れんばかりの笑顔で、煌きをふりまく声でそう伝えたのは、日が変わって5秒後。 にっこりと満面の笑みで口を閉じれば、力強い腕が首に廻される。 「 ありがとう、ありがとう。……おかえり。」 耳元で囁かれる声はどこか上擦って聞こえた。 握りしめていたイノセンスの発動を解いて落とし、もう一度ただいまと呟きリーバーを力強く抱きしめる。 そんなは電話機を背負っている。 成程これで連絡を―――と思ったリーバーだったが、これは本来ファインダーの持ち物なのではとも脳裏を掠めた。 「 プレゼントはどうやら間に合ったようね。」 暫くの熱い抱擁の後、背中に廻していた腕をほどきは笑う。 その左手には、なにやら淡いブルーの四角形の箱が提げられている。 それに目をやりながらもそうだなと答えると、おもむろにがその箱を開けた。 「 任務中に食べたオレンジピールのチーズケーキタルトが美味しかったから買ってきちゃったの。 一緒に食べようと思って。」 そう云って笑うを、リーバーは抱き寄せる。 俺が啼くのは、月が綺麗だからじゃない。 |