よ。」
「孟徳様……。」
与えられた分不相応に広い部屋。
その戸を開けて入ってきたのは、魏武帝の曹操。
暗闇の向こうに、薄っすらと蛍火が見えては消えた。
すぐさま寝台に寝転んでいた体勢から正座へと移す。
「呼び捨てで良いと云っておろう。足も崩しておけ。」
「はあ……。」
曖昧な返事をすると、後ろ手に戸は静かに締められる。夏の終わりを告げる、少し鼻の奥にツンと刺さる風が締め出された。
少しの間、息が詰まる。
もう幾度となく繰り返された光景。けれど未だ慣れるには回数が足りなくて。
将の出ではあるけれど、眼の前に居る人物は一国の主。格が違いすぎて萎縮してしまうのは仕方の無い事。
暗い部屋の中、曹操は寝台近くに灯を燈し、の横にゆっくりと腰を下ろした。
「未だ慣れぬか?」
抱く事も無く、触れる事も無く口を開く。
その横顔を見つめるの顔は、少し硬い。揺らめく蝋の灯りが影を落とす。
「儂が憎いか?」
橙色に染まる表情は、何処か自嘲気味に映った。
眉根を寄せて笑う顔が、不覚にも悲しく見える。弧を描く口元は、確かに笑っているのに。
「……憎悪の連鎖の乱世の中、誰かを憎むなど無益な事。無意味で御座います。」
その顔から眼を離さずに答えると、ふ、と表情が一瞬弛み眼が伏せられた。
開かれた眼が此方を見据える。心の中を探るように、見透かすように、眼と眼が交わる。
不敵に、自信に満ち溢れている笑みを浮かべる表情は、それでもやはり何処か自嘲気味に映る。悲しみが、見える。
橙色の灯りが揺らめく。
影が、色濃く落ちる。
「良い、正直に申してみよ。憎くて仕方が無かろう。お主の一族を皆殺しにしたのは他でも無い儂なのだからな。」
云い放つ曹操は愉しそうな口調で、表情で。
それでもやはり何処か自嘲気味に映る。
橙色の灯りを映す瞳が、悲しみの色に溢れているように感じる。
内に沸き立つ、感情の渦。
苛辣なまでの憎悪、嫌悪、侮蔑、苛立ち。同じ空気を吸うのも嫌だと吐き気がする。
しかしそれと同時に感じた、悲哀、哀愁、胸に棘が刺さったかのような、小さな鋭い痛み。
認めたくないと、間違いだと必死にそれを否定したところで、その感情は同時に生まれいずる。心の中で頭を振ってみたところで、否定は出来ない。
「……憎い」
漏れた言葉は橙色の灯りに溶ける。
曹操の表情が、一変して自嘲の色のみになった。そして悲哀といった色が、徐々にその顔を覗かせてくる。
云って、後悔した。
漏れた言葉は心根素直な本音。
いつもいつも心の中にあったもの。決して消えはしない感情。消そうとも思わない感情。消してはいけないと思う、感情。けれど押し殺していた感情。
それが吐露してしまった。
あまりにも素直に云われるものだから、あまりにも自嘲の笑みが眼に付いて離れないものだから。
感情を殺すことを忘れてしまった。
けれど云って、後悔した。
相手は憎むべき人、忌むべき人間。相対する、人種。なのに、云って後悔した。
何故かなどは判らない。後悔したものはしたのだから。
不敵な笑みが其処から消えたからだろうか。自嘲の色が濃くなったからだろうか。悲哀が、眼に見えて溢れていたからだろうか。
泣き出しそうな顔をしていたからだろうか。
揺らめく橙色の灯りは尚も2人の顔に影を作る。
「であろうな。それが正しい感情だ。」
そう云って、視線が離れた。
揺れる。
チクリと、痛んだ。
揺れた。
ズキリと、痛んだ。
「違う。」
気付けばそう吐いて、腕に縋っていた。
違う、何が違う?
己の吐いた言葉?それとも相手の表情?相手が吐き捨てた言葉?揺れるものが?揺れたものが?痛んだものが?
痛んだものは、何?誰のもの?
見上げる先の顔が此方を向いて、眼と眼が交わる。視線がぶつかる。
泣き出しそうな顔が橙色の灯りを反射している。その表情は、自嘲でも悲哀でもなく、驚愕の色を濃く出している。
……」
名を呼ばれ、ピクリと身体が反応を示す。
けれどその悲哀に満ちた眼から離れられず、逸らす事が出来ず。上手く息も出来なくて、口が開かない。唯唯縋る指先に力を籠める事しか出来なくて。
様々な感情が湧き立つ。
「泣くな、……。」
見つめる先の瞳が揺れて、彼の口が動いた。紡ぐ言葉は優しい音色を奏でて、悲しげに橙色の灯りに溶け往く。
泣き出しそうな顔をしている。
……」
頬が熱い。目頭が熱い。
「違う……」
言葉にならなくて、言葉が勝手に口を吐く。
「違う」
違う、何が違う?
己の吐いた言葉?それとも相手の表情?相手が呟いた言葉?
泣き出しそうな顔をしているのは誰?
「違う」
動かされる右腕は何処に触れるか迷うことも無く、線が細くそれでも無骨な指先が熱い頬へと誘われるように添えられる。
縋る指先に力が籠もった。
二本の指が頬に添えられ、親指の腹が熱い箇所をひやりと冷ました。
泣き出しそうな顔をしている曹操が、泣いているの涙をそっと拭う。
「違う」
「解った、解っている。」
「違う、違うの……!」
無骨な指を熱い涙が濡らす。拭った筈の涙が、抑えられる事もなく次から次へと堰切るようにあふれ出している。
曹操の指を濡らし、すり抜け、伝い落ちる。
見つめる先の表情が、凛としたものからくしゃりと崩れ始めた。愛らしい大きな両の眼からは大粒の涙が止め処無くあふれている。
拭えども拭えども、それは乾く間もなく白い頬に痕を残しながら伝い落ちる。
指先に触れる、熱い温もり。
初めての、温もり。
初めての、彼女の感情。初めて触れた、彼女の温もり。
、大丈夫だ落ち着け。」
云っている自身が落ち着いていないけれど、如何にかしたいと切に思った。
縋られる腕に籠められる力、指先に触れる熱い温もり、眼前に迫る崩れた表情。そのどれもが愛しくて、そのどれもが恐ろしくて、そのどれもが初めての事で。
如何すれば良いのかなど判る筈も無く、それでも如何にかしたいと切望している事に気付く。
初めてなのは、この感情も同じだ。何処かでそう静かに思った。
「違う……」
同じ言葉を繰り返す、他の言葉を忘れたかのように繰り返す。何かを伝えようと、切迫した雰囲気がひしひしと伝わってくる。
「違うの―――」
一際縋る指先に力が籠められた。一際表情が崩された。揺らめく橙色の灯りが涙に反射して、その姿すら綺麗さを際立たせる。
考えるより先に身体が動いていた。気付けばもうそうした後だった。不本意であって、本意であった。
濡れた白い頬から指を離した。
縋る指先を払った。
気付けば濡れた白い頬に唇を寄せていた。細い肩を抱きしめていた。
気付いて、自分が何をしたのか頭の中で整理する。唇を濡れた白い頬から離し、涙で濡れた眼を見つめる。頭の中で、自身がとった行動を反芻した。
濡れた白い頬につうと一筋の涙が流れる。
「……孟、徳様……」
揺れていた瞳が大きく開かれる。言葉が生まれる。崩れていた表情に、現れる吃驚の色。
涙に映る、自身の驚愕の表情。
居た堪れない感情が支配する。
初めて交わした感情が、こんなにも扱いに困るものだとは思いもしなかった。こんなにも動揺するとは思いもしなかった。こんな事に手古摺るとは、考えもしなかった。
「――っ、今日は、もう休め。」
そう発するのに、幾らかかった事か。細い肩を抱く掌に力を込め、反論を許さぬように念を押す。
「は、はい……。」
少しの間を置いて、交差する視線は其の儘に小さく首を縦に振るを見届け、揺らめく橙色の灯りを消し席を立つ。
背中に、視線が突き刺さるような感覚。
戸を開けると、夏の終わりを告げる少し鼻の奥にツンと刺さる風が一陣、部屋の中に拡がる。暗い闇夜を連れ立って、カタリと戸を鳴らす。
振り返れば泣き腫らした顔で此方を真っ直ぐに見つめる眼とぶつかる。
「―――」
何かを云おうと口を開いてみたものの、音が出ない。文字が、言葉が浮かんでこない。
数度開閉を繰り返したところで、首を小さく横に振った。何も出てこないのだ、何も。何一つとして。
其の儘眼を伏せて、視線を逸らせて部屋の外へと出、後ろ手で戸を閉め夏の終わりを告げる少し鼻の奥にツンと刺さる風のこれ以上の部屋への侵入を遮った。
ギシリと床板を踏みしめ、歩き出す。
暗闇の中、蛍火が仄かに灯りを落としている。

「――なんという、感情……」
戸の内外で、それぞれに口の中で漏れた言葉。
蛍火