□吸血姫  Vampire in N.Y.■





白く綺麗な牙が私の首筋に突き刺さる。プツリと、皮膚を突き破り。
小さな痛みが走り、じわりじわりとそれが拡がって往く。
躯の中から、少しずつ血の気が引いていくのが判った。未だ覚醒している頭と躯で、そう感じた。
首筋が、熱い。 鼓動が、速まる。
首筋から、水面に波紋が拡がる様に全身にかけて、少しずつ躯が熱くなっていく。ふわふわと、ちりちりと。
痛い……熱い……―――
躯に力が、躯から力が抜けていく―――血と共に。……身体を支えきれない……。
どくりどくりと速まっていた私の鼓動が、何故か収まってきた。――と云うより、血の気が更に引いてきて、鼓動が止まりそう。
朧げな頭でそう感じとれた。
好い加減、自分の足で立っていられなくなって、目の前にあるものに躯を預ける様になだれ込んだ。
痛くて、熱くて……全身が熱くてだるい。
「っつぅ……。」
針を抜く様な小さな痛みが走る。首筋には生暖かいモノが伝い落ちる。
嗚呼、駄目……本当に躯に力が……入らな…………――――――


次の瞬間、視界に天井が拡がった。
ふと息を吐いて、嗚呼、あの後、私は倒れたのだと悟った。
躯にはふかふかとした感触。どうやら布団の中に横たわっているみたい。
血の気が無い為か、未だ少し頭がクラクラする。
躯全身も少し、手足の先は酷くビリビリと痺れているみたいで居心地が頗る悪い。
けれどそれを無理矢理覚醒させようと、手を付いて躯を起き上がらせる。……脳が、揺れる。厭な、揺れだわ。
白いレースのカーテンがふわふわと優しく揺れる窓の外は、ほんのりと橙に色づいている。
時々、カーテンの揺れに合わせ部屋の中に入ってくる風が、冷たくて躯に染み入るのが少し気持ちよかった。
「そんなにも私、眠ってたんだ……。」
未だ、しっかりしない頭を抑えながらポツリと吐き出す。
事が起こったのが午後10時頃、だった筈。今は――朝日がもう射しているから午前5時は回ってる……なぁ……。
惚とする頭で不規則に揺れるカーテンを見ながらそんな事を考えていると、先の事を思い出し牙を立てられた箇所を指でなぞってみる。つぅと上から下へ。
指先に当たるガーゼの感触。
「偉い、なぁ……。」
きちんと処置が施されている。
溜め息が溢れる。
このガーゼは彼女なりの償いのつもりなのか、はたまた私を思い遣っての事なのか、単に周りが汚れない為なのか。
何れの理由にせよ、丁寧に処置された首筋をなぞり私は小さく笑った。色々な感情を雑ぜて。
弛んだ表情から真顔に戻る瞬間、特に何を考えていた訳でも無かった。唯、昨夜の事を思い出す様に、思い描く様に、左の指先に触れるガーゼの柔らかさに意識が高まっていた。
何を考える訳でも無く、唯狂った様に繰り返しなぞる指先は迷いが無くて。
何処を見る事も――何処かを見ている様で何処も見ていない瞳の焦点は少しずつ白いもやが掛かったように視界を埋めていく。

「起きてたの?」
ふわりと、風が吹き抜ける。一陣の冷たい風が。
彷徨っていた意識が急速に私の中へと戻る。視界の霧も晴れて往く。
音源へと目をやると、片手にトレイを持ち、ドアノブにもう片方の手を掛けている金髪碧眼の美麗な女性がドアを開け放ち立っていた。
「今し方、起きました……。」
吹き抜ける風を背後に、美しい彼女は流れる様にドアを閉め私へと歩み寄り始める。
乾いた口を開きポツと漏れる様に私は言葉を掛けた。
未だ惚けている頭を無理矢理に覚醒させ、私は彼女へと視線を移す。美麗な彼女へと。
それと共に自然、首筋のガーゼに触れていた左手を下ろしていた。
「痛む?」
私が寝転ぶベッドのサイドボードへ温かな湯気がくゆるトレイを下ろし、彼女は私の額に自身の右手をそっと置く。
じんわりと温かい様な、ひんやりと冷たい様な、妙に心地の良い掌を。
さらりと滑り落ちる彼女の髪から僅かにたつ花の香が私の鼻をくすぐる。良い匂い……。
目を瞑ればまるでそう、満開の花畑の中に寝そべっているみたいで。ふわふわと心地の良い風も。
惚とする頭は睡眠を欲する様に促す。花の香も風もそれを後押ししているみたいだ。
ゆるゆると、甘い眠りへと誘われる。
「眠い?食欲は……無い、か?」
ふっと心地の良い温もりが消え、次に髪を撫でられる感覚が生まれた。
急に不安になり縋る様に目を開ければ、眼の前には美しい彼女――アンジェラの怜悧な顔があって、私は酷く安心出来た。
ゆっくりと逆らう事無く滑らされるアンジェラの手の感覚が、髪越しに伝わってきて、強張っていた顔の筋肉も徐々に緩む。
「食欲はある?」
眼の前数十センチの距離でアンジェラはその整った顔を崩す事無く小さく口を動かす。
耳に入ってくるのは心地の良い落ち着ける声音で、私はいつも彼女の声に聞き惚れてしまう。
そう、それが例え今の様な状況であっても。
「サトル。」
「ぅあ……。」
彼女に名を呼ばれたかと思うと、刹那に小さな痛みが額に走った。
状況を把握してみるに、どうやら私は彼女に中指で額をはじかれた様だ。―――所謂、デコピンというやつ。
私の意とは裏腹に、なんとも間の抜けた声が私の口をついて漏れた。
アンジェラは私を見つめてくる。唯黙って、その端整な顔を私へと真っ直ぐに向ける。
その色彩が左右で違い長い睫が魅力の一つの双眸で、しっかりと私を捉えている。
ええと―――――ああ、そうか、確か食欲がどうとか……。

「……空いてる。」
お腹の上に両手を置き、じっとそれを見つめてから漏れるように呟いた。
私は確かに、空腹感を覚えている。
しかしながら瞬時にそれが出てこない辺り、本当にアンジェラは小惑的で私の感覚はいつも鈍ってしまう。
彼女が近くに居れば居る程、それは大きく。
「ならば食べるか。ホウレン草のひたしに梅粥だ。」
そう云って彼女はサイドボードへと向き手を伸ばした。
カチャと高い音が鳴り、温かな香が一段と濃くなる。
……この人は、本当に。
「わざわざ、作ってくれたの?こんな時間から……。」
未だ早朝だと、云うのに。
「ああ。適当に冷蔵庫をあさらせてもらった。」
私へと躯を向け私の膝の上にトレイを乗せるアンジェラは、それでも私と視線を合わす事無く。
「……こうなったのも、私のせいだしな。」
私に蓮華を持たせ、目を伏せた。声も、先程までとは違いその美しいハリが失われている。
目が泳ぐ。私の目が。
この人は、いつもこうだ。
「いや、しかし。金髪美人のお姉様から″梅粥″なんて言葉が聞けるとはね。ビックリですわよ。」
ふっと力を抜いて、にこりと笑う。だって普通は″リゾット″でしょ、″おかゆ″じゃなくて。
そのギャップがあまりにも可愛く映って。その仕草があまりにも綺麗に映って。
私の心は満たされる。
「それじゃ、遠慮なく。」
蓮華を持ったまま手を合わせ、目を瞑って、いただきます。
私は、神様なんて信じてないけど。
「そんな顔、しないでくれる?折角の美味しいモノも不味くなっちゃうでしょ。」
左手で彼女の頭をポンと一撫でし、私は湯気の昇る蓮華を口へと運ぶ。
本当に、そんな顔しないでくれる?そんな声、出さないでくれる?
アレは私が望んでやってる事なんだから。私がやりたい事なんだから。
アンジェラが負い目を感じる必要性なんて無い。何処にも、全く。
なのにどうしてこの人はこうまで面目無さそうにするのか。何を引け目に感じるのか。
プラチナブロンドの緩やかなウェーブのかかった長い髪を窓から入り込む風に揺らし、右の紺碧、左の灰銀の瞳で何を見ているのだろうか。光の加減によってはあおくも見えるその双眸で。

何かに操られるかの様に、私はアンジェラを見る事が出来ないでいた。
それでも。
私は彼女に生きていて欲しい。未だ居なくなって欲しくない。傍に……未だ傍に居たい、居て欲しい。
本当に必要としているのは私の方なのよ。本当に欲しているのは、私の方なのよ。
そう、あの日から、ずっと――――――。


アンジェラは世間で云うところの所謂吸血鬼と謳われている存在の者だ。
私は昨晩、彼女に血を吸われた。否、私が自発的に彼女に自分の血を吸わせたのだ。
贄だ何だと、世間が知れば云われるかもしれない。けどそんな生温いものなんかじゃない。そんな不恰好なものじゃない。
私は私の意志で吸わせたのだ吸ってもらったのだ。
何故なら―――何故なら私は彼女に、言葉では云い表せられない程の義を、この世の総ての言葉を用いたとしても云い尽くせない程の恩義を感じているから。
私は彼女に生きていて欲しいと強く願う。
私は、彼女に救われたから。


彼女との出会いは数ヵ月前。初夏の少し蒸し暑い日。恐ろしい位に綺麗な紅い満月の夜だった。
ドラマや映画で狼が遠吠えをしていそうな、そんな画が酷く似合う夜。
きっとこれは、出会うべくして出会ったのだろう。そういう運命だったんだ。
何時もの様に、私は一人で大学からの帰途についていた。
公園を抜けると近道になるので、私は能く公園を横切っていた。
唯ここで問題なのは公園が在る場所で。
安穏としている日本と違い此処は随分と殺伐としているそのお国柄で。発砲事件なんて日常茶飯事だった。
けれどなかなかに住宅街に在るこの公園は、日の出ている頃はそれでも賑わっていて。小さな子供たちが遊んでいるのを毎日と見ていた。
流石に、夜ともなるとその姿は変わるけれど。
それでも充分に灯りがあって、抜けて行く数分位大丈夫だと思って私は何時もその公園を横切っていた。
胸に一抹の不安を覚えながら、けれど声を上げれば大丈夫だろうと。明るいから、大丈夫だろうと思っていた。
だからその日も、何時もの様に公園を歩いていた。違ったのは、公園の外灯が切れていたというだけ。
その日は偶偶、約30m毎に置かれている外灯のうち二つが並んで切れていた。
―――否、これは偶偶ではなく今思えば必然だったのかもしれない。これも運命のひとつだったんだ。
虫達は灯りに群がりその周りをジジジと小気味の悪い羽音を立てながら飛んでいる。
暗いなぁと少し思う程度で、然程気にも留めていなかった。
今までだって大丈夫だったし、なによりその日は恐ろしい位に綺麗な紅い満月が夜空に咲いていて、とても明るかったから。

灯りの点いている外灯から切れている外灯の下へと、私は私が暮らす部屋へと歩いていた。何時もの様に。
そしていきなり、襲われたのだ。
外灯の切れた底の見えぬ暗闇から、数人の男性が飛び出してきて私に襲い掛かってきた。
その儘、私は事態を把握する暇すら与えられずその底の見えぬ暗闇へと連れ込まれた。
強引な力に抗う事も出来ず、しかし着実に動き出す頭は否応無しに物事を捉え始める。
徐々に焦燥感が込み上げてきて、恐怖という感情が私の心も躯も支配する。
震えだす躯は正直で、恐くて怖くてどうしようもなくて。助けを呼びたくても恐怖に支配され上手く声が出ない。口すらも、考える様には動かない。
その短い間にも男達は私の躯を押さえつけ、柔らかいスカートの中へとその乱暴な手を入れる。私が暴れないようにと、咽喉元にジャックナイフを突き付けて。
視界の真ん中に、ぎらりと鋭くナイフが光る。
それが余計に私の恐怖心を煽り、躯を強張らせる。凍りつく様に、総てが止まった様な錯覚さえも覚えた。
私は、死を、覚悟した。
アソばれた後に刺されて殺されるか、そうでなくともアソばれた後に自ら絶とうと思った。そんな事をされた後に生きるのなんて酷だ。いっそ此処で終わらしてしまえ、と。
頭が混乱していたのかもしれない。けれど確かに、そう思った。そう、覚悟を決めた。
すると不思議な事に、何故だか怖さも消えてしまっていた。涙も出ない。もうどうでもいいとさえ思えた。
この儘、最期を迎えるのもそれも良いと。一粒の雫を乾いた頬に流しながら思った。

そこへ、風が吹き込んだ。
一陣の冷たい風がひゅるりと舞い込んだのだ。
次の瞬間、私の躯を押さえつけていた男達の気色の悪い手の感触が消えた。少しの温もりと水気だけを残して。
何をされる様を見たくなくてそっと閉じていた目。
何がどうなったのか、何故だか確かめずには居られなくて恐る恐る、開いてみた。

其処に、彼女は、居た。
漆黒の足元までを覆うロングコートを風になびかせ、プラチナブロンドの長髪を柔らかく風になびかせ。
其処に、彼女は佇んでいた。
まるで漆黒の闇に浮かびあがる一輪のエクアドルローズの様で。
茫然とした。
ただただ、彼女の美しさに。
背後に見える、恐い位に綺麗な紅い満月さえも、霞ませる彼女の美しさに、私は心奪われた。
彼女から目が離せなかった。他に何も、見えはしなかった。
「'You Okey?」
そう凛と通る声で云いながら、彼女は手を差し伸べる。私へと。
未だ惚けている私は何も反応出来ないでいた。
それを"大丈夫ではない"と捉えたのか、彼女はしゃがみ込んだ。

何が起こったのか。
私にはすぐに理解できなかった。
彼女は、自分の襟元に結んでいた細いワインレッドのリボンを解き始める。
漆黒のコートに純白のブラウス、そしてワインレッドの喋喋結びにされた細いリボン。
そのどれもが互いを際立たせ、亦彼女をより一層引き立てる。美しく、麗しく。
背後に大きく咲くあの恐い位に綺麗な紅い満月さえも、彼女の美しさを際立たせる為の小道具に成り下がっている。
私は少しずつ我に返っていき、自分の意識を水底より引っ張り上げる。
漆黒のロングコートの間から覗く、純白のブラウスに付いている朱いアクセント。少し、黒ずんで見えるものもある。模様にしては、少々不規則過ぎて、雑だ。
これは、なんだろう。
そう、幾分惚とする頭で考えていると、不意に彼女は私へと手を伸ばした。
そして、何時の間にか解いていたワインレッドの細いリボンを私の首にかけ、心なしかきつく結ぶ。
何をされているのか全く飲み込めていない。
ぐ、と咽喉が詰まり、鳴る。
それでも躯を動かす事は叶わず、私はされるが儘にそれを受け入れる術しか持ち合わせておらず。
若干自由の利く目と首で周りを能く見てみれば、人が倒れている。何人も。
そのどれもが、首から朱い液体をたらして倒れているのだ。
これは―――、と思い、もう一度能く彼女の顔を見た。
美麗な顔のその口の周りに、朱いモノがついている。手でこすったかの様に、かすれて。
これは、そうなのだろうか。
次に彼女の手の甲に視線を這わすと、ああ、口の周りと同じ様な朱いモノが。指先には、紅く輝く雫も見受けられる。
これは、そうなのだろう、か。
何がどう、判った訳ではないけれど、私は感じた。
―――この人は、きっと―――……
「Did I be invited to the blood by which you drip in red and come here?
 (私は、貴女の紅く滴り落ちる血に誘われて此処へ来た。)」
そう、彼女は呟いて、指先に光る紅いそれを舐めとる。
それは確かに私のもので。気付けば首筋に違和感があり、それは浅く斬られたナイフによる創でそこから紅い鮮血がじわりと流れ出ていた。
「But regrettable.It is already filled enough now.Agreat injury cannot be found and it is what.
 (けれど、残念。今はもう、充分潤っている。大した怪我がなく何よりだ。)」
そう云って立ち上がり、私の躯を起き上がらせる。
「Can you walk Okey? Shall I send you to a house?
 (大丈夫――歩けるか?家まで送り届けようか)」
心配そうに、少しその怜悧な顔を崩し私に話しかける。

何て答えようか、言葉が頭の中で五月蝿く木霊する。
大丈夫です。―――違う。
歩けません。―――此れも違う。
ありがとう―――違うだろう。
恐い位に綺麗な紅い満月が、視界の端で煩くちらつく。
――――此処に居て――――
「It...It is in by the side. Please be beside of me.
 (傍に、居て……私の、私の傍に居て――。)」
気付けば、そう口走っていた。
彼女はやはり驚いた様子だったが、刹那に含みのある微笑みへと変えられる。
「I am a so-called vampire. People's lifeblood is also sniffled.
 Do you still think that I want me to be in a side?
 (私は――所謂吸血鬼、だ。人の生き血をもすする。
 それでも、そばに置いておきたい……か?)」
不適に、微笑み、白い牙を、覗かせる。
「Yes,yes.... I want you to be in an I side.
 (――ええ、私の……傍に居て欲しいの。)」

不思議と、恐怖心なんてなかった。
唯、あの恐い位に綺麗な紅い満月さえ霞ませてしまう彼女に、強く惹かれた。魅せられていた。

「I understand. I will grant the wish....
 (判った。その願い、聞き入れよう―――。)」
透き通る程に白い素肌には、朱がこすりつけられていた。