明鏡止水
「別に怒ってなんかない。
君が俺の事を如何思おうがそれは君の勝手だ。その思いを如何言葉にするかも君の勝手だ。俺が抑圧出来る事でもない。」
次第に総てが澄み渡ってくる。
頭の中も、心の中も、視える世界も。口からこぼれ出す言葉達も。
「何処で如何、言葉にするかは、総て君の勝手だ。
誰の前で言葉にしようと、総て君の勝手だ。
何も俺は怒ってなどいない。そんな顔をするな。」
目の前に居る、バツの悪い、尚且つ今にも泣き出しそうな顔をした人間に、そう諭す。
「君が俺の事を如何思おうが、そしてそれを何時・何処で・誰に向けて言葉にしようが、それらは総て君の勝手だ。
誰に如何思われようが、それは俺の気にするべき事ではない。
そして、俺は別に怒っている訳ではない。
君は、僕の陰口を叩いた。
唯、その事が悲しかっただけだ。
そう、決して怒ってなどはいない。本当だ。信じて良い。」
即座に、目の前に居る人間が慌てた様に言葉を紡ぎ出す。
「違うんだ。」
「誤解だ。」
「本心じゃない、ただの冗談だ。」
咳を切ったかの様に、様々な言葉が飛び出してくる。
必死に、『何か』を繋ぎ止めておくために。
幼児の云い訳に能く似た言葉が。止め処なく吹き出してくる。
どうにかして、繋ぎ止めておきたいモノの為に。
それは、俺には理解出来なかった。
「どうしたんだ?何をそんな顔をする必要が有る?
何をそんな慌てて説明する必要が有る?」
目の前にある顔が、緊張し、動きが止まる。
「何をそんな、取り繕う必要が有る?誰も何も怒ってなどいないぞ?」
次第に総てが澄み渡ってくる。
思考も、心理も、眼力も。紡がれる、言霊達も。
総てが澄み渡ってくる。
「何も心配する必要は無い。大丈夫だ。」
自然と顔の筋肉が動き、微笑みをもらす。
「誰も怒ってなんかいない。だから大丈夫だ。」
つられて苦笑いをする目の前の人間の頭を優しく撫でる。
「誰も君を恨んだり憎んだりしない。」
次第に、総てが澄み渡ってくる。そう、総てが。
穏やかに。総てが澄み渡ってくる。
「そう、恨みも憎みもしない。」
澄み渡って、澄み渡って。壊れてしまいそうな程澄み渡って。
「唯、忘れるだけだから。」
目の前にある顔が、再び緊張する。
「君の事総て、忘れるだけだから。
恨みも憎みもしない、唯忘れるだけだ。
それなら君も、何も気にする事は無いだろう?
恨まれる訳でも、憎まれる訳でもない。忘れられるだけだ。
気も楽だろう?」
小刻みに震える躯。
「君との出会いから今日の今まで、色々な事があったけど、その総てを忘れてあげる。
そう、勿論、君の事自身も。」
震えが止まらない四肢を視ながら、どんどん研ぎ澄まされていく感覚。
そう、次第に総てが澄み渡ってくる。
「君との出会いを忘れ、君との思い出を忘れ、君を忘れ。
君はもう、俺とは何の接点も持たない、通行人Aだ。
君はもう、俺と云うしがらみから解き放たれた。君は今、自由だ。」
一言一句までもが、澄み渡ってくる。
「忘れられると云う事が、例え俺にとって、どんなに辛い事だろうが、今は関係ない。
自由だと云う事が、例え俺にとって、どんなに辛い事だろうが、今は関係ない。」
総て 総て。
「そこまで俺を追い詰めたのは、他ならない君だ。君の言動だ。
だが、忘れて良い。
何故なら僕は、君との事を総て忘れるから。」
広がる様に澄み渡ってくる。
「君を総て、丸ごと忘れるから。」
倒れそうな位、頭が痛くなる程、次第に総てが澄み渡ってくる。
扉に手を掛け、ゆっくりと開ける。
泣き崩れすがる人間を。一度だけ抱きしめて。
「大丈夫。総て忘れるから。君はもう、自由だから。」
綺麗な言葉も総て、澄み渡っていく。
もう2度と交わることの無い線と線だけれども。
思い出にするには辛すぎるから。
総て忘れて。
次第に総てが澄み渡ってくる。
「誰も怒っている訳ではない。
唯、悲しかったんだ。
だから総て忘れるだけだ。」
次第に総てが澄み渡ってくる。
次第に総てが澄み渡っていく。
明 止
鏡 水