さよなら






「ねぇ、ミキオ。 一度だけで良いから、一言だけで良いから、云ってくれない?


好きだって……。」


最後に見た、彼女の苦しそうな、でもとても綺麗な笑顔とこの言葉が、脳裏に酷く焼きついている。
時間が経つにつれて、そう、はっきりと。






何時もの様に、莫迦な教え子を軽く弄って、同僚と会話を交わして、自分の席に着いて帰り支度をして。
震える携帯電話を確かめてみると、

『今日、これから会えない?』

そう彼女からメールが届いた。
別に珍しい事じゃなかった。今までに幾度となくそう届いていたし、この先もきっとそうなんだと思ってた。思い込んでいた。

『カタ カチ カタカタカタ……』

機械的に彼女のメモリを開き、通話ボタンを押す。

カチ。

『プップップッ……トゥルルルルル トゥルルルルル トゥルルルルル……』
幾度か機械の呼び出し音が耳に入る。

『トゥルルルルル トゥルル プツッッ――もしもし?』
何時もと同じ、電話越しでも能く通る彼女の声だ。

「あー、俺だけど。」
と、左手で携帯電話を持ちながら右手で帰り支度を進める。
『あ!もしかして、今日ダメだった?』
少し、声が揺れた気がした。
「いや、大丈夫。もう仕事終わったし、今から迎えに行こうか?」

気付けば、隣にヤツキが居た。何か云いた気に笑っているが。

『え……?えっえっ、うそ?本当に?どうしたの?』
急に声に張りが出た。どうやら喜んでいる様だ。
「なにがだよ。」
俺には訳が判らなかった。彼女が喜んでいる訳が。
『なにがって、今から迎えに来てくれるんでしょ?あのミキオが。
 初めてなんだもん、そんな事云ってくれたのって。』
かなり酷い云われ方をしているが、それでも彼女はとても嬉しそうだ。
「あー?そうだったか?」
初めてだとか如何とか、正直俺にそんな記憶は全く無い。
『そうだよー。もう、意識無しなの?
 ふふ、でも、来てくれるんだよね?』
「ああ、今から行くから。会社の玄関前で待ってろ。」

『うん。ありがとう。』
至極嬉しそうに、多分あの、犬の様にふわふわと笑っているんだろうと思うと、少し頬が緩んだ。

「ああ、じゃあ、亦後で。」

 カチ、プツッ。


「……。」

「………。」

「…………。」

 ゴソゴソ

「……。」

トットッ  キイン シッ  ジジッジッ……


「ふぅ〜……。」

「阪本先生。」

案の定、ヤツキが小さく笑いながら話しかける。

「野暮を承知で云いますけど、珍しいですよね。」
そう云いながら、以前貸していたCDを俺に手渡し、あの幼い笑顔で更に攻めてくる。
「阪本先生が"誰か"を迎えに行かれるなんて。
 どういった心境の変化ですか?」
と。

俺は、一度大きく空気と煙草を吸い込み、ゆっくりと吐き出しながら口を開く。

「うるせーよ。」

くすっ。

俺の返答を予測していたのか、ヤツキは一度微笑み、背を向けて自分の席へと戻って行く。
背中で『はいはい。』と云いながら。

「……うるせーよ、どいつもこいつも。」
煙草を咥えたまま声を殺して吐き捨てた。



それから直ぐ、彼女が待っている場所まで車を走らせ彼女と落ち合った。
彼女や同僚からは『珍しい』だの『頭打ってちょっと可笑しくなったんじゃないの』だの好き勝手云われたが、俺にとっては何時も通りにしていただけだった。そう、何時も通りに。
例えこの事が初めての事だったとしても、俺にとってはごく普通の事だった。

その後、何時もの様に2人で食事を済まし、何時もの様に何気ない会話を交わしていた。
と云っても、何時も一方的に彼女が話し、俺はソレを聞いて返事をしている感じだ。まぁ話すより聞く方が楽で良いしな。

ふと、会話が止まっていた事に気付く。
彼女は俺の眼を真っ直ぐに見ているだけだった。何も云わず、唯じっと。
少し居心地が悪く感じた俺は、新しい煙草を取り出し火をつける。
なにかを誤魔化す様に、ジジジと音を立て赤く染まっていく煙草の先端を見つめた。

「ねぇ、ミキオ。」

不意に彼女が話しかける。
俺は何時もの様に、唯煙草を吸いながら次の言葉を待った。
外を歩いている人々は、手に手に傘を持っていた。

『ジジジ……』

「一度だけで良いから」

『ジジ……』

「一言だけで良いから」

『ジジッジ……』

「云ってくれない?」

「フーー……」

「好きだって。」

何時の間にか、外を歩いている人々は、持っている傘をさしていた。

言葉が出なかった。動けなかった。

煙草の灰が少し伸びた頃、彼女へと顔を向けた。
彼女はわらっていた。
何時もの、犬の様なふわふわとした笑顔ではなく、大人の女性の笑顔で。
綺麗にわらっていた。

「やっぱり、か。」

ふっ、と短く息を吐き出し、表情を崩して彼女は笑う。何時もの様に、犬の様にふわふわと。
けれどその端々には、諦めと見える色が出ていた。

「ずっと、不安だったんだ。」

彼女は指を組み、少しコーヒーが残ったカップをうっすらと見つめながら、少しずつ話し始める。

「何をするにも、いつも私からだったから。」

木の葉が揺れた。

「友達を通して初めて会った時だって私から話しかけたし。」

枝が揺れた。

「好きだって云ったのも私。付き合ってって云ったのも私。」

彼女の肩までの髪が空調に揺れた。

「メールも電話も、連絡を取るのもいつも私。」

紫煙はゆったりと漂う。

「会いたいって云うのも、会おうって云うのも、私。」

灰はゆっくりと、しかし確かに伸びていく。

「場所を指定するのも、話しをするのも、いつもいつも私。」

けれど彼女の瞳は揺れ動かない。

「もうね、駄目なの。もう、可笑しくなりそうなの。」

躯全体に力を入れ、ゆっくりと総てを吐き出そうとする。

「私はいつだってミキオの事考えてるのに。私はいつだってミキオの事観てたのに。」

眉を寄せ、肩に力を入れ。

「私はいつだってミキオに、話しかけていたのに。」

笑ってなどいる筈はないのに、先程見た彼女の顔がちらつく。
きれいにわらっていた、彼女の顔が。

「だから今日、ミキオが迎えに来てくれるって云ってくれた時、凄く嬉しかったんだよ?
 少し、期待しちゃったんだよ。」

紫煙はゆっくりとたゆたう。

「もしかしたら、ミキオも私の事っ……て。」

彼女の肩までの髪が 揺れた。

「でも、それはやっぱり私の願望だっただけで、違ったんだね。」

彼女の瞳は揺るがない。

「仕方無いんだろうけどね。
 今まで一度もミキオは云ってくれなかったし、笑ってもくれなかったもん。
 知ってた?
 今までで優しい顔で笑ってくれたのって、今日だけなんだよ?」

彼女は顔を上げ、眉を寄せたまま笑う。

「その笑顔見て、やっぱり私、ミキオの事が好きだって強く思ったし、もしかしたらミキオもって、思っちゃったんだよ。」

指で髪を梳いて、彼女は笑う。

「でも、さっきのミキオの反応見て、はっきりと判っちゃったし。」

亦、彼女はコーヒーカップへと視線を注ぐ。

「……。」

取っ手に右手の指をかける。

「ありがとうね?今まで。
 全然辛くなかったって云えばそれは間違いなく嘘だけど。」

カチャ、と音を立ててカップを少し持ち上げる。

「それでも楽しさや嬉しさの方が沢山あるんだ。そんなモノ吹き飛ばしちゃうくらい。
 それに、今日はミキオの笑顔も見られたしね?」

それから、カップを口に付け中身を飲み干す。一滴も残さずに。

「雨降ってるけど、折りたたみ持ってるから。」

つまりそれは、車で送ってくれなくても良いと。

「未だ遅くないし、大丈夫。」

つまりそれは、一人で帰れると。

「それじゃコレ、今日の分……。」

そう云って、鞄から財布を出そうとする。

「――良いよ。今日は俺が払うから。」
そう云うと、少し眼を見開いていたが、すぐに鞄を弄る手を止めた。


「ありがとう。」

「いや。」



「ありがとう。」

「――ああ。」


「それじゃあ、そろそろ。」
ゆっくりと立ち上がり、鞄とコートを手に取る。
俺は座ったままで彼女の顔を見上げた。

「うん。」

彼女はやはり、綺麗にわらった。


「さよなら。」

俺の眼をまっすぐ見たまま。綺麗にわらったまま。

「ああ。――さよなら。」
俺も彼女の眼を見据えたまま。

彼女は綺麗に綺麗にわらい、店を出た。
俺は今、どんな表情をしている?


彼女の綺麗にわらった顔は、確かに苦しそうだった。辛そうだった。
そんなもの、一目見れば直ぐに判る。
それでも彼女は綺麗にわらってくれた。




短くなった煙草を押し消し、新しい煙草に火をつける。



俺は今、どんな顔をしている?





















設定:

ミキオ=阪本先生
実は未だに名前の漢字が決まっていないなんとも云えない人。
翔也の担任。年は20代後半。

ヤツキ=小町 八月
阪本先生の同僚。三月の担任。年は20代前半。

彼女
阪本先生がお付き合いしていた女性。年は阪本先生より一つ下。



お付き合いしていたと云っても、キスもなければその他も無い。
なんていうか、中学生以下?否、寧ろそれ以上かもしれない。
でも、純情だった訳では無い。
唯、『付き合ってくれ』と云われたから付き合っていた、それだけ。
好きな訳ではないけれど、嫌いな訳でも無い。それにその時独り身だった。
酷いとか云われそうだけど、そんなのもアリじゃないかと思い
丁度本誌(そんなモノあるのか!)設定(と云うか作者設定)でも彼女持ちだったので
阪本先生で書かせて戴きました。

この後日談で、三月と絡ませて阪本先生に語って貰ったりフォロー入れたりしようかとも思ったけど
邪魔臭いとか思ったので割愛。
ほら、こんなところでも作者の『寡黙は美徳』が表れてる。










■閉じる■