あ、落ちた。






「あ、落ちた。」
三月がそう口にすると、机の端に追いやられていた花瓶が宙に舞い、息をする暇もなく繊細な音を引き連れてフローリングの硬い床に着地した。
「あーあ。割れちゃった。」
そう云いはするものの、三月は動こうとする事はなく視線を読みかけの書へと戻す。
割れた花瓶の隣には、教科書とノートを机いっぱいに広げ右手で赤いボールペンをクルクルと廻しながらそれらと睨み合っている翔也が居た。

僅かに木霊するしじま。
しかしそれを先に破ったのは翔也で。
ギシと小さな軋み音を上げながら、背もたれに全体重を預けるように伸びをし盛大な溜め息を吐いた。その右手からは赤いボールペンは解放され、軽く拳が握られている。
「そらこんなトコに置かれたら落とすわ。」
ダラリと全身の力を抜き無防備に椅子に身体を預けながら翔也は吐き捨てるように呟く。その口調はまるで邪魔者を排斥するような冷淡なものである。
そんな翔也の背中を見ることもせず、三月は唯書へと視線を落としたまま薄く口を開く。
「そんな事云ってやんなよ。
 折角おば様が男臭い翔の部屋を少しでも華やかにしてあげようと思って飾ってくれたんだから。」
「知らんがなそんなん。唯の有り難迷惑やっちゅーねん。」
飾るにしても勉強机の上は無いやろと加える翔也は、自分を見る事も無く読書に夢中な三月をじとりと恨めしそうに見つめる。
その視線に気付いているのかいないのか、多分前者であろうけれどもまるで存在を全身で否定するかの如く三月は顔を上げはしない。
仕方無く、というか所在無さげに、というか。翔也は視線の先を三月から割れて中の水と花が飛び出た花瓶へと渋々移した。
派手に割れてもうたなぁ。
そんな事を思いつつ、観察するようにしげしげと見つめている。

再び、木霊するのはしじまだけで。
翔也は決して片そうとはしない。
唯しげしげと、食い入るように割れた花瓶とそれから飛び出た水と花を見ている。
椅子から立ち上がる事も無く、仕舞いには机に肘を置いて頬杖をついてしまった。
「さっさと片しなよ。幾ら水だからって、フローリング傷むよ。」
何時まで経っても片す物音が上がらず、それどころか動く気配すら無い部屋の主に痺れを切らしたのか、先程とは変わり今度は三月が先に口を割った。
しかしその言葉は心配しているというよりは、冷たく云い放っていると云った方が正しいだろう。
「メンドイ。」
「腐っても良いならその儘にしとけよ。」
「……片そうとは思わんの?」
「なんで俺が?」
平然とそう云ってのける三月はそれでも翔也を見ようともせず、未だその視線の先は書へと落ちている。
なにが如何転んでも、自ら動いて片す気は更々無いようだ。
そんな三月に聞こえるようにわざと盛大な溜め息を一つ落とす翔也はメンドクサイなぁと今一度もらした。

持ってきた古新聞の上に欠けた花瓶の破片を乗せながら、翔也は頭を掻く。
この花をどうしようかと、密かに思考を巡らせていた。
家の内情にあまり関心の無い翔也には、この家に今余っている花瓶があるのかどうかすら判らないでいる。
親に聞けばそんな事くらいすぐに判るのだが、それはそれで嫌だと気持ちが拒み、三月に聞いたところでコイツが知ってる筈も無いだろうと内心小莫迦にした感じで思っていた。
ああそうだ、いもうとに聞けば判るかもと思ったが、それを聞いてしまえば花瓶を割った経緯を話さなければならなくなり、それが苦痛だとは云わずともなんか面倒臭いと感じたのだろう、それすらも選択肢の中から消してしまったのだから、八方塞と云う事態に。
どないせぇ云うねんと云いたげな顔は非常に面倒臭そうだ。

「夕樹やったら進んで片してくれんのに。」
不意にポツリと漏れたのは隣で悠々と読書に耽る者に対する嫌味であり本音であり。
それでもこの言葉になにかしらのリアクションが返ってくるとは思ってもいない。所謂独り言というやつだ。
「片してて怪我でもしたらどうすんの。」
しかし期待を裏切り、三月は言葉を寄越した。
気まぐれであろうか、そうでなくとも確かに、三月は翔也の言葉にリアクションを示したのだ。
「――俺はええの?」
その事に少し驚きつつも、なんとか返す。
怪我をするとは誰の事を示すのだろう、三月の事かはたまた夕樹の事か。と、考えながら。
「自業自得以外の何物でもない。」
しれと云ってのける言葉は、それでも正論だ。
これ以上なにを云ってもコイツからは同情の言葉を頂戴出来ないだろうと踏んだ翔也は、ソウデスネと一言返して再び割ってしまった花瓶を片し始めた。
飛び出してしまった花たちを、どうしようかと迷いながら。

俯き、割れた花瓶を黙って片す翔也を、三月は何時からか見つめていた。
けれどその視線に翔也は気付いていない。
意味深に見つめる三月の手の中には、『覆水盆に返らず』という文字が、静かに並んでいた。






















設定:

三月が小5の時の話だと思います。必然的に翔也は中1。
喫茶店でボーっと待ってる時にふと思いついた話。

三月=三月 凍季也。
一人称が俺だったのか僕だったのか忘れたので取り敢えず俺で。

翔也=諸星 翔也。
多分定期考査の勉強中。

オチとか特に無いですけどー。










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