Pansy,
My Master






「じゃあちゃんはこの世界での俺様の雇い主ね。」



陽が傾く逢刻魔。スーパーのビニール袋に缶ビールが1本ガサガサと音を上げている。足早に家路へと就く人波の中、も其処に紛れていた。一日働き疲れているのだろう、その足取りは重い。
自宅マンションに辿り着き、キーを差し込み鍵を開ける逆の手には、缶ビールの入ったスーパーのビニール袋と新聞や葉書などが握られている。ガラスドアを押し開け、チカチカと切れ掛かっている蛍光灯の下を通りエレベーターへと向かう。ポーンと明るい音と共に開かれるエレベーターに乗り込みボタンを2つ押す。
そこでふうと、は息を吐き目を伏せた。
ポーン
再び明るい音が鳴りエレベーターのドアが開く。視線を上げドアが閉まる前に出るは、けれどゆっくりと足を動かす。
自室のドアの前で再びカードキーを取り出しすっと差し込む。カシャンと金属の音が上がったのを確認してからノブを回しドアを開ける。視界に入る玄関に靴は無い。けれど奥の部屋から灯がもれている。
は再び息を吐く。先程よりも、少々深く。
カードキーを財布に仕舞い、靴を脱ぎ捨て部屋へと上がる。スリッパを履き、明るい光をもらす部屋のドアノブを回す。
「おかえり〜。」
迷彩柄の服を着た、ツンツンと逆立った茶色い髪をした長身の男性が明るい声で出迎える。
はうろんげに、あからさまに嫌な顔をした。
ちゃん、俺様が愛情籠めておかえりって言ってるんだよー、何かないの?」
「未だ居たんだ。」
にこにこと愛想良く、立ち上がり抱きつこうとする長身の男性を見る事も無く辛辣な言葉を吐き捨て隣を素通りし、ダイニングテーブルに鞄や新聞を下ろすは疲れの色を一層濃くしている。
「つれないねぇ、俺様がちゃんから離れられる訳無いじゃん。」
「誤解を招くような事言わないで。」
プシ、と鳴らし缶ビールのプルタブを起し、は缶にそのまま口付ける。それを見た長身の男性は苦笑し、ちゃんはしたないよと窘める。けれどごくごくと小気味良い音を上げる咽喉は、渇いた大地が雨を受け入れるようにビールをするするとのみ込み、五臓六腑へと染み渡らせる。暫くして、ぷはぁと息をするはそばに立つ長身の男性をチラリと見、再び小さく息を吐いた。
「それ、美味しいの?」
椅子に座り自分を見上げるツンツン髪の男性。少し現実離れした風貌に、整った顔。どちらかといえばワイルド系だろうか。そんな事を頭の片隅で考えながら、ゴクリと音を立てもう一口ビールを飲み込んだ。
「毎日飲んでるけど。」
「毒だよ。」
飲んでみたいと含めた言い方をするツンツン髪の男性の言葉を一刀両断するは、缶ビールをテーブルに置きコートのボタンに手を掛ける。
ちゃんは毎日毒を飲んでるんだ?」
「そうよ、返して。」
「身体に悪いよ〜?」
「それを求めるのが人間の性よ。」
返してと、ツンツン髪の男性がひょいと取った缶ビールへと手を伸ばす。けれどツンツン髪の男性は、物珍しそうに繁々と缶ビールを眺めている。くるくると回したり、蛍光灯の光にかざしてみたり、中を覗き込んでみたり。
そんなツンツン髪の男性を見て、は本日幾度目かの溜め息を吐き、長い睫毛をゆっくりと伏せる。
ふと、視界の端に映る影。伏せられた目が勢い良く見開かれる。そしてバタバタと大きな足音を引き連れてソファーへと走る。繁々と缶ビールを眺めていたツンツン髪の男性は、何事かと缶ビールからへと視線を移した。
ぐるりと、勢い良く振り返ったと視線がぶつかり、驚く。
の頬が、沈む夕陽のように赤く燃えていたから。
「ど……」
「っ佐助!!」
「はいっ!!?」
名前を叫ばれたツンツン髪の男性は思わず、腰掛けていた椅子の上に正座した。
その視線の先には、燃える頬を持つが居る。
「勝手な事しないでって言ったでしょ!!」
拳を握りぷるぷると震わせ、顔は真っ赤に燃え目には薄っすらと光るものが見える。
突然、どうしたのか。
怒鳴る声には怒りがしっかりと籠められているが、頬の赤さは怒りだけでは無いように見える。
椅子の上に正座するツンツン髪の男性は大きな体躯を小さくし、まるで子供のようにの顔色を伺っている。
「か、勝手な事って……?」
「家の事よ!掃除も――それに、洗濯!!」
握った拳を振り回し、力強く最後の言葉を叫んだ。気のせいか、ガラス戸が少しガタガタと泣いたようだ。
「で、でも時間があって暇だし、かと言って外に出る訳にはいかないから……」
他にする事が無いからと、申し訳無さそうに言葉を紡ぐ。けれどその言葉を向けられるは、ぷるぷると身体を震わせびしっと音がつくほど力強く、床の上に置かれているゲーム機を指す。
「ゲームがあるでしょっ!」
でもと口篭るツンツン髪の男性に、やり方は教えたし覚えたでしょと、どこかヒステリックにも聞こえる叫びを上げる。
「一人じゃ楽しくないし――」
「一人用だ!囲碁も、将棋も、一人で出来るでしょ!!」
反論は許さないと、目も声も訴えているは肩で大きく息をする。
鋭く睨みつけられているツンツン髪の男性は、どうしたものかと言葉にならない声を口の中で出す。どうして彼女が怒っているのか、それが解らないのだ。不可抗力とはいえ、居候している身としては、働きに出ている家主の力に少しでもなりたいと思うのは当然で、出来る事とは限られてくる。そう、彼が今日したような、家の中で出来る家事、だ。けれどそれをした結果、家主は烈火の如く怒り出してしまった。自分に何か不備があったのか思い返す。
しかし、何も思い当たらない。
主に仕えていた時にしていたように、懸命に家事をこなしただけだ。
「もう二度と勝手な事はしないで!良い!?」
「……どうしても?」
「どうしても!!!!」
耳まで真っ赤にして否定するに、どうしてそこまでと思いつつもツンツン髪の男性は分かったよと無理矢理納得する。分かったから落ち着いてと立ち上がりへと近づこうものなら、こっちに来るなと怒号されてしまい面食らう。狼狽しながらも分かったよと苦笑すれば、着替えてくるから此処に居ろとギロリと睨まれる。少し、ついて行こうかとも思ったが、ついて来たらこの部屋から追い出すと釘を刺され沈没する。そんなツンツン髪の男性を睨みながら、ソファーの上にある綺麗に畳まれた洗濯物を抱え別の部屋へと足早に消えるの背中に、理不尽に怒られ少ししょぼくれているツンツン髪の男性は夕飯作りは一緒にするよと投げかけた。
「……下着見られた!佐助の馬鹿!!!」
暗い部屋に飛び込んだは洗濯物に赤い顔を埋め小さく叫んだ。



陽が傾く逢刻魔。スーパーのビニール袋には2本の缶ビール。ガサガサと鳴るそれをぶら下げ、足早に歩く。無言のまま家路に就く人波に紛れ、重い足取りでずるずると進む。
ポーンと明るい音が上がりエレベーターから降りる。自室のドアの前でカードキーを取り出し差し込む。カシャンと金属音が上がったのを確認してからしっかりとドアノブを回す。軽い音を上げ開かれるドアの向こうに、男物の靴が一足蛍光灯に照らされている。
「ただいまー。」
靴を脱ぎ捨てスリッパを履き、カードキーを財布へとしまう。パタパタと廊下を歩き、一つのドアを開ける。
「おかえりー!今丁度、出来上がったところだよ。」
鼻をくすぐる暖かな良い香り。
白い割烹着姿のツンツン髪の男性――佐助が片手鍋とお玉を持ちキッチンに立っている。
外とは違い暖められた明るい部屋、食欲を誘う料理の香り。
出迎えてくれる暖かな部屋と笑顔。
独り暮らしをしているには懐かしいもので、くすぐったくもある。笑顔で出迎えてくれる佐助に、少し苦笑した。
ガサリと鳴らしダイニングテーブルにスーパーのビニール袋を置いたはふとソファーを見やる。
瞬時に、顔に火矢が放たれた。
「っ佐助えっ!!」
「な〜によちゃん、大声出して〜。」
憤怒の形相で力一杯ソファーを指差すの声は盛大に震えており、その目には薄っすらと光るものがある。紅を引いたようなのその顔に、佐助は何事かと目を丸くする。
「ど、どうしたのちゃん……?」
「だから!」
ダン!と一度足を踏み鳴らしたはずかずかと大股に歩き、佐助の胸倉を引っ掴んで再びソファーへと大股で歩く。ちょっとちょっと味噌汁がこぼれちゃうからと慌てる佐助はバランスを崩しながら前のめりに引き摺られる。両手に片手鍋とお玉を持った割烹着姿で。
「これ!」
「……ああ、洗濯物?それがどうしたの?」
「っどうしたのじゃない!勝手な事しないでって何度も言ったでしょ!!」
「でも暇だし、何時までも外に干しとく訳にもいかないでしょ。」
「口答えするなっ!」
ばちん、と小気味の良い音が上がる。
赤い顔をしたは綺麗に畳まれた洗濯物を乱暴に抱き上げ寝室へと転がり込む。
その様を眺める佐助の両頬は少し赤く腫れており、暫く消えたの背中を見ていたがやれやれと一つ息を吐き出しキッチンへと肩を落とし戻った。

「どうしてそこまで怒るの?」
幾許か恥じらいの引いた顔で戻って来たに訊ねてみるも返事は寄越されず、ふんと鼻を鳴らし顔を背けられる。参ったなぁと少々困惑しつつも配膳し、佐助はの対面に静かに座る。
「はぁ。」
伏せた目で配膳された料理を眺めるは、これ見よがしに盛大な息を吐く。どうしようかと反応を考える佐助が口を開く前に、盛大な溜め息を吐いたの口が動いた。
「どうせ来るなら幸村が良かった。」
その言葉に、むっとする佐助。
「それ、何度も言ってるけど。ちゃんの許に来たのは真田の旦那じゃなくて俺様だから。」
「うん、知ってる。人の言う事を聞かない図体のデカイ禄でも無い奴でしょ。」
「人聞き悪いなぁ、俺様良い子にしてるでしょ。」
「あー幸村なら私の言う事きっちり聞いて余計な事なんて何一つしないんだろうなぁ。」
「真田の旦那なら余計な仕事を増やすよ。」
「素直だから許せるね。」
「俺様の洗濯物だってあるんだからついでじゃん。」
「ついでにしなくて良いの!馬鹿!!」
食事を前にヒートアップする2人の会話。今にも立ち上がりお互いの顔を突き合せそうな勢いだ。
事ある毎に、贔屓にしているキャラ、幸村を引き合いに出すに佐助は度々腹の中に異物を感じていた。それがどういった代物なのか解らないが、心地の良いもので無い事だけは解っている。
「俺様を掴まえて馬鹿は無いでしょ馬鹿は。」
ぽつりともらせば目でバーカバーカと訴えられるが、そのの頬が赤く染まっているのに気付く。
それが不思議でならなかった。
「どうして照れてるの?」
「っ!うるっさい!!」
照れてないわいただきます!と怒気良く、パンと両手を合わせ箸を持つ。もさもさと佐助の手料理を無言で口へと運ぶ。そんなを見て一つ小さく溜め息を吐いた佐助も、両手を合わせいただきますと箸を持つ。無言で箸を進めるをチラリと見て、こんな筈じゃあと心の中で盛大に息を吐く。
静かに進む食事。美味しいと思いながらもはその言葉を口には出さない。幸村が居れば、真田の旦那が居れば、食事も楽しく和やかに進むのになぁと思いチラリと顔を上げると、と佐助の目が合う。にこりと微笑む佐助だが、は鼻をふんと鳴らし顔を下げる。そして共に、心の中で頭を振った。此処に真田幸村は居ないのだ、と。

「あ、そうそう。明日は仕事休みなんだよね?」
綺麗に片付けられたテーブルの上に缶ビールを1本とグラスを2つ置き、佐助は明るく笑う。ブシュと白い泡を少し撒き散らし音を上げビールを開けるはそうだけどなにと睨みつけ、グラスにビールをトクトクと注ぐ。
「色々買いたい物があるって言ってたけど、俺様もついて行くよ。」
「ぶふぉっ……!っついて来んな!!」
不意をつかれむせながらも、力強く否定する。口の周りについたビールと泡を指で拭い、ぐっとビールを飲み込むに、ほらほら大丈夫?と苦笑する佐助は白い割烹着のポケットからハンカチを差し出した。
「どうしてよ?忍は主を守る為に在るんだよ?」
「だから何よ。」
ちゃんはこの世界での俺様の主だから。」
「……は?」
佐助に渡されたハンカチで口の周りと手を拭くが、突拍子も無い佐助の言葉に思わず落としそうになる。ゆっくりと目を瞬かせるが、佐助は至って平常通りに、あの食えない笑顔を携え、だっていつ帰られるか解らないじゃんと加えた。
「俺様こう見えて、かなり尽くすよ〜。」
「給料なんて払わないよ?」
「んじゃ身体で払ってもらうから。」
「っ主を手篭めにするな!!」
「あー、主って認めた!」
「!!」
アルコールが回っているからか、はたまた別の要因からか赤い顔をするを佐助はからかうように扱う。
認めてないと叫ぶだが、最早佐助に陥落する日は近いだろう。